ルカによる福音書15:25-32 (新約139頁)

「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

(ルカ15:31-32)

お兄さんは放蕩息子の弟の帰還を喜ぶお父さんを厳しく批判しました(29-30節)。すると、お父さんから上のような意外な言葉を聞かされました。お兄さんにとって意外であった第一の点は、お父さんから「わたしのものは全部お前のものだ」と言われたことでした。確かに、12節に「父親は財産を二人に分けてやった」とありましたように、お父さんはお兄さんと弟にすでに相続分を分けてやったのですから、お父さんのもとに残っている農場や牧場は、すべてお兄さんのものでした。もちろん、実際に農場や牧場を責任者として管理していたのはお父さんだったのでしょうが、いわゆる名義上の持ち主はお兄さんになっていました。ですから、お兄さんが「友達と宴会をするから子山羊一匹を料理して出してください」と言えば、お父さんは喜んでそのとおりにしてくれたことでしょう。このお兄さんの心の中心にあったのは、「何年もお父さんに仕えている自分」であり「言いつけに背いたことは一度もない」自分でありました(29節)。そのような自分のしたこと、つまり自分の功績や業績を中心に考えるような精神構造では、お父さんの気持ちはわからないでしょう。
お兄さんにとって意外であった第二の点は、お父さんから「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」ときっぱり言い渡されたことでありました。お兄さんの頭の中では、この議論はどう考えても自分が正しい、祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは間違っている、という結論になっていました。ところが、それはお兄さんの頭の中で「自分はこれだけのことをしてきた」という考えが中心になっていたからであります。もし考え方の中心を自分たちはお父さんに愛されているという点に置き変えますと、放蕩息子の弟が帰ってきたことを「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前」という結論になるのです。つまり、お父さんの愛を中心に置いて考えるならば、たとえ財産を使い果たした放蕩息子であっても、愛する息子なのですから、それが帰ってきたことを喜ぶのが当たり前なのです。そして、お父さんの自分に対する愛を理解していなかったお兄さんには、「いなくなっていたのに見つかった」弟に対するお父さんの愛も理解できなかったのでした。

(12月27日の説教より)