コリントの信徒への手紙二2:9-11

あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
(二コリント2:10)

パウロは悔い改めた「みだらな者」を赦す決意をしていました。そして、コリント教会の信徒たちの姿勢と食い違いが生じないように願っていました。そこで、「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します」と書いたのです。また、悔い改めた「みだらな者」を赦すということは、パウロの単なる個人的な思いではなく、パウロが聖霊によるキリストとの交わりの中でしたことでした。そこで、「キリストの前で」と言うのです。しかも、それは「あなたがたのために赦した」というのです。「あなたがたのため」とは、コリント教会の信徒たちのためということです。どういうことでしょうか?それは、パウロの指導に従って「みだらな者」を罰したコリント教会の信徒たちが、悔い改めた「みだらな者」を赦さないとすれば、コリント教会の中に深刻な分裂が起こる恐れがあるからです。
少し前の6節には「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」とありました。「多数の者から受けたあの罰」ということは、少数の信徒たちは「みだらな者」に罰を与えることに賛成していなかったこということになります。その少数がどれくらいの割合であったかはわかりません。しかし、もし悔い改めたにもかかわらず「みだらな者」を赦さなければ、罰を与えることに賛成していなかった少数の信徒たちは、罰を与えた多数の信徒たちを激しく攻撃することでしょう。そうすると、罰を与えた多数の信徒たちの中から「やっぱりあの罰は間違いだった」と言って考えを変える人が出るかもしれません。また、悔い改めた「みだらな者」本人も「悔い改めたこと自体が間違いだった」と言って再びかたくなになるかもしれません。そうなると、コリント教会は深刻な分裂状態に陥ることになるでしょう。コリント教会が深刻な分裂状態に陥るならば、言うまでもなく信徒たちにとっては不幸なことです。パウロはそこまで考えて「キリストの前であなたがたのために赦した」と述べているのです。    (11月15日の説教より)