最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
(一コリント15:46-47)

これは、人類の先祖アダムは「自然の命の体」をもっており、「土ででき」ており、「地に属する者」であるということです。それに対して、人類の救い主キリストは「霊の体」をもっており、「天に属する者」であるということです。人類の先祖アダムは命の源である神様に背いたために、神様との正しい交わりを失って「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世3:19)という厳しい裁きを宣告されました。「自然の命の体」しかもたない人間は、自然の命が死んで終われば「塵に返る」しかないはかない存在であるということです。ところが、人類の救い主キリストは十字架上で死んだにもかかわらず、「塵に返る」ことなく「霊の体」に復活して、永遠に生きるものとなったのでした。
パウロはこのアダムとキリストの対比をさらに推し進めて、アダムの子孫として「塵に返る」者たちと、キリストに結ばれてキリストと同じように「霊の体」に復活する者たちとを対比しています。すなわち、48節と49節には「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」とあります。ここで、パウロは「土からできた者たち」「天に属する者たち」というように、「者たち」という複数の言葉を使っています。つまり、全人類は「土からできた」アダムに等しい「土からできた者たち」であって、死んで土に返るしかない者たちだということです。ところが、「天に属する」キリストと信仰によって結ばれたならば、土に返るしかない者たちが「天に属する者たち」となって、復活の「霊の体」をいただけるということです。そして、私たち人類は「土からできた」アダムと同じような「似姿」になったように、「天に属する」キリストと信仰によって結ばれることによって、将来、キリストと同じような「似姿」にもなることができるだろうということです。それは、キリストと同じような「霊の体」をもって復活するであろうということです。        (6月7日の説教より