そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

                    (ルカ23:34)

神に対して完全な自己否定の姿勢を取っておられたキリストは、隣人に対しても完全な自己否定の姿勢を取っておられました。すなわち、御自身に十字架の苦しみを与えている敵に対して、彼らを赦してくださいという執り成しの祈りをしておられたのです。この祈りから、キリストがエゴイズムのない完全な御方であったことがわかります。旧約聖書のイザヤ書53章12節には、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」という預言があります。神に背く罪人たちのために最後まで執り成しをしてくださったキリストの御姿は、まさしくこの預言どおりでありました。

この祈りは、キリストの自己否定が単なる外面的なものではなく、その存在の最も深いところから出てきたものであることを表しています。人間の場合には、外面的には自己否定をしても、内面的には自己に執着している場合もないわけではありません。真の愛がないのに全財産を貧しい人のために使ったり、自分の身を死に引き渡すこともありえるのです(一コリント13:3参照)。しかし、キリストは十字架につけられて苦しみを耐えながら、真の愛を神と隣人に注いでおられました。義務だからしかたなく十字架につくが、心の中では御自身を十字架につけた人々をひそかに呪っていたというのではありません。心の深みから完全に自己否定をして、神の意志に服従し、敵である人々の救いのために御自身をささげられたのでありました。キリストの十字架が私たちの罪を償ういけにえであるのは、このようにキリストが神に対しても隣人に対しても完全に自己否定をして、人類を代表して御自身を神の御前に献げてくださったからでありました。

(3月15日の説教より)