イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」 (ルカ23:28)
キリストが十字架につけられることを悲しんでいるエルサレムの婦人たちに、真に悲しむべきであるのは神の裁きを逃れることのできないあなたたち自身のことなのだ、とキリストはおっしゃいました。これは、エルサレムの人々を悔い改めに導こうとするキリストの愛の表れであります。聞いた人々は、そのときは意味を理解することができなかったでしょう。しかし、後に聖霊を受けた使徒ペトロがエルサレムの人々に向かって「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒2:36)という説教をしたときに、それを聞いて悔い改めた人々が三千人もあったと記されています。そのとき悔い改めて洗礼を受けた人々の中には、キリストが十字架につけられる直前に語られた、この警告の御言葉を思い出した人もいたのではないでしょうか。
悲しみは人を悔い改めに導きます。そういう意味では、悲しみは楽しみに勝っています。使徒パウロも「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(二コリント7:10)と記しています。主の兄弟ヤコブも「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコブ4:9-10)と教えています。水野源三という詩人は次のように詠っています。「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったら 私は今どうなったかた 悲しみよ悲しみよ お前が私を この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある 主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ」
(3月8日の説教より)