「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」(ルカ12:35-36)
聖書の時代の一般的な衣服は、上半身からひざまたはくるぶしまでを覆う一続きのものでありました。家の中でくつろぐときはそれをゆるやかに身にまとっていましたが、旅に出るときや働くときには、腰に帯を締めて衣服を体にぴったりとさせ、動きやすいようにしました。ですから、「腰に帯を締め」というのは、いつ主人が帰って来ても働けるような心構えで、キリストの再臨に備えるということです。
「ともし火をともす」というのは、僕たちが待っているのが夜という時だからであります。聖書では、クリスチャンの生きている現在という時がしばしば夜にたとえられています。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(ローマ13:12)ここで「闇の行い」とは「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」(ローマ13:13)のことであります。したがって、「夜」とは、人間が罪深い本性のままに行う様々な悪い行いが満ちている世界の様子をさしております。そして、そのような世界になじんで、特に自覚のないままに悪い行いをしていることが「眠っている」ということです。クリスチャンは、夜のような時代の中で眠らずに目を覚ましているようにと勧められています。それは、聖書の御言葉の光によって魂が照らされて、何が正しいこと、何が善いことであるかをわきまえて生活しているということです。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37節)というのは、キリストが最後の審判をするためにこの世に再び来られるときに、キリストを待ち望みつつ善い生活をしているクリスチャンは幸いだ、ということであります。
(1月26日の説教より)