「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」
(ルカ11:34)
この場合、「目」とは肉体の目ではなく、信仰の目のことであります。また、「全身」や「体」も単なる肉体のことではなく、人間の全人格のことをさしています。そして、「澄んでいる」と訳されているギリシア語ハプルースの本来の意味は「単純な」ということであります。そこで、信仰の目が澄んでいるとは信仰が単純であるということであり、単純な信仰ほどその人の人格全体を照らすということが教えられているのであります。
普通、「単純」という言葉はあまりよい意味では用いられません。「あの人は単純な人だ」と言うと、ほめているというよりは、けなしていることになります。そして、しばしば信仰の問題についても、「単純な信仰」というのは程度の低いもので、普通の人には何を言っているのかわからないような複雑な信仰の方がより高度なものであるかのように考えられがちです。しかし、キリストは、単純な信仰すなわち澄んだ信仰が人格を明るくし、単純でない信仰すなわち濁った信仰が人格を暗くするとおっしゃっているのです。それでは、単純な信仰とはどのような信仰でしょうか。それは、一筋にキリストに信頼する信仰、キリストともう一つ何か別のものとに二股をかけない信仰のことであります。人はキリストだけでは生きていけないと考えて、キリスト以外のものに二股をかけようとしがちです。キリストと人間の知恵、キリストと人間の富、キリストとこの世の地位、キリストとこの世のプライドというように。ところが、そのような信仰は濁った信仰であるので、信じている人自身を明るくしません。言い換えますと、二股をかける信仰では、キリストの恵みを十分に受け取ることができないのであります。 (11月24日の説教より)