「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
(ルカ11:23)
キリストは「わたしに味方しない者」という言葉を「わたしと一緒に集めない者」と言い換えておられます。ですから、キリストに味方するとはキリストと一緒に集めることであるということがわかります。そして、「集める」とは、羊飼いが散り散りになりそうな羊を集めて、羊の群れを導くことを念頭に置いた表現であります。したがって、教会の働きにこの御言葉を当てはめますと、教会の伝道と牧会という奉仕こそが、キリストと共に戦うことであると言えるのです。
それとは反対に、悪魔の最終的な意図は、神を信じる者たち(神の民)を散り散りにしてそれぞれの欲望のままに歩ませ、罪の力によって滅びに至らせるところにあります。この悪魔の力が恐るべきものであることは、聖書が繰り返し教えているところです。たとえば、使徒ペトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」(一ペトロ5:8-9)と警告しています。また、キリストは主の祈りの終わりの部分で「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えて、神の力に頼って悪魔と戦うべきことを命じておられます。宗教改革者のカルヴァンもこの祈りについての解説のなかで「われわれは、絶えまなく戦うことなしには――しかも、つらく・はげしい闘争なしには――神に従うことができないのであるから、勝利をかちとるために、神がわれわれに武具をよろわせ、助けを与えて守りたもうように祈るのである」と記しています。
(10月20日の説教より)