預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。    (一コリント14:29)

この指示から、当時のコリント教会では、礼拝の中で神様の御心を解き明かすのは、特定の一人の人ではなかったということがわかります。今日の教会では、牧師が聖書に基づいて神様の御心の解き明かしをします。しかし、当時のコリント教会には未だそのような人はいなかったのです。神様から霊感を受けた人が自由に「預言」をしていたのでした。そこで、「預言」を語った後で、それが本当に神様の御心であるのかどうかを「検討」することが求められました。
これは、今日の教会の私たちからすれば驚くべきことでしょう。今日の教会では、説教をする牧師は、神学校で神学教育を受けて卒業した後、教師試補試験や教師試験を受けて合格することが求められます。聖書に基づいて神様の御心を正しく解き明かす力があるかどうかを、説教の務めをするようになる前に教育され試験される仕組みになっています。ところが、当時のコリント教会にはそのような仕組みはありませんでした。自分は神様から霊感を受けたと思えば、誰でも礼拝の中で「預言」を語ることができたのです。そこで、礼拝の中で「預言」として語られたことを、礼拝の中で「検討」する必要がありました。パウロは12章の10節の中で「霊を見分ける力」という賜物があると記していました。つまり、礼拝の中で語られたことが、本当に神様から霊感を受けて聖霊の導きによって語られたものであるかどうか「見分ける力」をもった人がいたということです。そこで、当時のコリント教会ではだれでも「預言」することができたのですが、「預言」した後で「霊を見分ける力」をもった人がそれを「検討」するように命じられました。今日の私たちからすると、礼拝の中で「預言」の「検討」をしたりすると、不毛な神学議論にならないだろうか、感情的な対立にならないだろうか、と心配になります。しかし、できるだけそうならないように、適切な言葉で権威をもって「検討」することのできる「霊を見分ける力」を与えられた人がいたのでしょう。
(10月6日の説教より)