わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。 (一コリント14:14-15)
この箇所で「理性」と翻訳されているのは、ギリシア語のヌースという言葉です。ギリシア語の辞典によれば、この言葉の第一の意味は、「知的認識の能力」(the faculty of intellectual perception)ということです。そこで、むしろ「知性」と翻訳した方がよいかもしれません。「理性」というとかなり広い意味がありますが、「知性」は「知覚をもととしてそれを認識にまで作りあげる精神的機能」(広辞苑第五版)という意味です。パウロがここで述べていることによく当てはまります。2017年に出版された福音派の教会で用いられている新改訳聖書の新しい版は、この箇所のギリシア語のヌースを「知性」と翻訳しています。
パウロは自分の経験に基づいて、「異言」で祈る場合、「わたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません」と言います。つまり、自分の「霊」が神の霊である聖霊と結ばれて神に向かって何かを語っているのですが、それは知的な認識として共有できるものではないということです。もちろん、人間は知的な認識だけではなく感情によっても行動します。ですから、知的な認識を伴わない「異言」に意味がないということではありません。しかし、語っている人も聞く人も共によくわかるのは、知的な認識に基づく言葉です。ですから、祈りや讃美は神様に届けば他の人にはわからなくてもいいというのではなく、お互いによくわかる言葉を使って祈ったり讃美したりすることが必要だとパウロは考えています。ですから、パウロは「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」と言うのです。これは言い換えますと、「異言」で祈るだけでなく知的なわかる言葉でも祈りましょう、「異言」で讃美するだけでなく、知的なわかる言葉でも讃美しましょう、ということです。
(9月22日の説教より)