異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 (一コリント14:2-3)
ここから「異言」とはどのようなものであるかがわかります。「異言」は人に向かってではなく神に向かって語る言葉ですから、人には理解することができません。それは、神から霊感を受けて通常の人間の言葉とは違う言葉で神を讃美し、神様に祈ることです。現在の日本キリスト教会では、異言で讃美したり祈ったりすることはまったくと言っていいほど行われていません。しかし、世界の教会、特にペンテコステ派の教会では普通に行われています。わたくしは韓国に留学しているときに異言の祈りをしばしば聞きました。確かにそれは理解できないのですが、外国でのことですからそれほど気にはならず、一所懸命に祈ってるんだなあという感じを受けました。
これに対して、「預言」は人に向かって神の御心を解き明かす言葉ですから、通常の人間の言葉を用いて語られます。そして、聖霊の導きによって心を開いて「預言」を聞いた人はその意味を理解することができます。キリストによって示された神の御心とは、キリストを信じる人が罪の赦しと永遠の命を得て、罪と死から解放されて新しく生きることです。ですから、このことを解き明かす言葉は、「人を造り上げ、励まし、慰め」るのです。「造り上げ」と翻訳されているギリシア語の言葉は、オイコドメーという家を建てることを意味する言葉です。家を建てるときに土台から始まって柱、屋根、壁、窓を造るように、人間の人格も順序正しく造り上げられる必要があります。「預言」によって、罪の赦しと永遠の命という土台が据えられ、その上に新しい人格が造り上げられていくのです。そのような「預言」の力は、罪や死の力に苦しめられている人にとって、大きな「励まし」と「慰め」になります。とりわけ、幼い時や若い時に安定した人格の土台を造ることができずに苦しんでいる人は、キリストによって示された神様の愛を解き明かす「預言」を聞き続けることによって「励まし」と「慰め」を受けて、人生を少しずつやり直していくことができるのです。 (9月8日の説教より)