「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」       (ルカ6:43-44)
          
 このたとえの中の「良い実」とは、神の喜ばれる良い言葉や行いのことで、「悪い実」とは、神の喜ばれない悪い言葉や行いのことです。すなわち、「良い実」とは「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラ5:22-23)などのことであり、「悪い実」とは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」(ガラテヤ5:19-21)のことです。
宗教改革の教えは、人間の悔い改めが心からのものでなければならないということを教えています。カルヴァンの『キリスト教綱要』は、第2篇3章で人間の本性が全く堕落しているということを論じています。このことは、本日のたとえの表現で言えば、すべての人が「悪い木」であるということです。「悪い木」が「良い木」に変えられるのは、ただひたすら神の働きによることです。カルヴァンはフィリピの信徒への手紙1章6節を引用しつつ、「神はわれわれのうちに『よきわざ』をはじめるとき、われわれの心に、義への愛と、願いと、努力を起こしたもう」(第2篇3章6)と記しています。そして、第3篇3章においては、人間がキリストへの信仰によって新しく生まれるということを明らかにしています。すなわち、信仰によって悔い改めが起こることと、悔い改めは「己れを死なせること」と「新しく生きること」の二つからなることを、詳細に論じています。そして、これらのことが知的にだけではなく、「心のもっとも奥まった感情のうちに」(第3篇6章4)受け入れられるときに、初めてクリスチャンとしての人格や生活が形づくられていくのです。 (8月18日の説教より)