すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。        (一コリント13:7)

 最初の「忍び」と翻訳されているステゴーというギリシア語の動詞は、屋根をかけて覆うという意味の言葉です。そこから、相手の不愉快なことに対して沈黙でそれを覆うという解釈が出てきます。しかし、パウロは同じ言葉をこの手紙の中でそれとは違う意味で用いています。それは、9章の12節です。「他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」
 「この権利を用いませんでした」とは、福音を宣べ伝える者は教会から報酬を受ける権利があるが、パウロはその権利を用いなかったということを表しています。そして、この9章12節の「すべてを耐え忍んでいます」は、13章7節の「すべてを忍び」と同じギリシア語の動詞が用いられている箇所でもあります。9章12節の「すべてを耐え忍んでいます」とは沈黙して我慢しているということでしょうか。そうではないでしょう。現にこの手紙の中で、パウロは自分にも報酬を受ける権利があることをはっきりと主張しています。しかし、キリストの福音を宣べ伝える妨げにならないように、パウロはあえてその権利を用いませんでした。そして、報酬を受けないことからくる生活の厳しさに加えて、パウロは報酬を受けることのできない二流の伝道者なのだというひどい侮辱を受けても、それを耐え忍んでコリント教会の信徒たちに向き合って福音を宣べ伝え続けました。それが「すべてを耐え忍んでいます」ということの意味でしょう。
 ですから、13章7節の「すべてを忍び」も同じように、侮辱を受けても相手と向き合い続けるという意味でしょう。New English Bible やRevised English Bibleという英語の聖書は、この箇所を「愛が向き合うことのできないものはない」“there is nothing love cannot face”と大胆に意訳しています。パウロの意図をよく伝える翻訳だと思います。  (7月14日の説教より)