ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力   (一コリント12:9)

9節の前半には聖霊の賜物として「信仰」が挙げられています。キリストを信じる信仰が聖霊によって与えられるのは当然のことで、それをわざわざ聖霊の賜物の一つとして挙げる必要はないではないか、と思う方もおられるでしょう。しかし、ここでパウロが「信仰」と言っているのは、超自然的な奇跡を起こすほどの純粋な信仰のことです。同じこの手紙の13章2節でパウロは「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と書いています。「山を動かす」とは超自然的な奇跡を起こすことことを意味しています。この書き方から、クリスチャンの中には超自然的な奇跡を起こすことができるほどの完全な信仰をもっている人がいるということが示されています。そのような完全な信仰は、その人自身から出たものではなく、聖霊の賜物だということです。
9節の後半でパウロは聖霊の賜物として「病気をいやす力」を挙げています。イエス・キリストが病の人をいやす場面は、福音書の中にたびたび出てきます。それだけでなく、使徒言行録には復活のキリストに遣わされた使徒たちが病の人をいやす奇跡を行ったことを記した箇所があります。たとえば、使徒言行録の9章34節では、使徒ペトロが中風で八年前から床についていたアイネアという人に「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアがすぐ起き上がったという奇跡が記されています。また、使徒パウロが皇帝の裁判を受けるためにローマに護送される途中で、船が地中海で難破してマルタ島という島に漂着したときのことです。マルタ島にはプブリウスという長官がいました。使徒言行録28章の8節と9節によりますと、この「プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった」といういやしの奇跡がありました。このように、ペトロやパウロは聖霊の賜物として「病気をいやす力」を与えられていたのでした。(5月19日の説教より)