務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。(一コリント12:5)

 この主というのは、主であるイエス・キリストのことです。そして、「務め」というのは地上の教会の中でキリストから委託された「務め」のことです。地上のキリスト教会はキリストを証しするという大きな「務め」をイエス・キリストから与えられました。そして、天におられるキリストは、キリストを証しするという大きな「務め」を果たさせるために、ご自身の体である地上の教会の中にさまざまな個別の「務め」をする人を置かれました。先ほどお話しした「賜物」は、個別の「務め」を委託された人がその個別の「務め」を果たすために与えられるものなのです。
 「務め」と翻訳されているディアコニアというギリシア語は、新約聖書の他のところでは「任務」(使徒20:24、二コリント5:18)と訳されることもあります。「任務」という言葉からもわかりますように、クリスチャンが教会でなす奉仕の活動は、天におられるキリストから委託された「任務」としてなされなければなりません。奉仕というと、自分のやりたいことをすればよいように聞こえるかもしれません。しかし、キリスト教会における奉仕は、キリストから委託されたことをするというのが重要な原則です。教会の活動の中で混乱が起こるときに、それぞれがキリストから委託されたことをするという原則が守られていない場合があります。それぞれがキリストから委託されたことが何かということは、教会の秩序の中で決められ、聖霊の賜物によって裏付けられます。コリント教会では通常の人間の言葉とは異なる「異言」を語ることがすぐれたクリスチャンのしるしとされ、信徒たちが好んで「異言」を語ったために礼拝において混乱が生じました。そこで、パウロはこの手紙の14章26節以下で礼拝の秩序を定めて、「異言」を語る人、その「異言」を解釈する人、通常の人間の言葉で神の言葉を解き明かす「預言」を語る人、その「預言」を検討する人というそれぞれの個別の「務め」をなすようにと命じています。現代の私たちの教会では、さまざまな会議や打ち合わせを通して、信徒の方それぞれが委託された個別の「務め」が何であるかということが明らかにされていくのであります。      (5月12日の説教より)