それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
(一コリント11:20-21)
コリント教会の信徒たちが礼拝に集ったときには、だいたい次のようなことが行われていたのだろうと想像されます。自分の家を礼拝の会場として提供したのは裕福な人でした。その人は自分と同じような裕福な人々を食堂に招き入れました。そして、祈りや教えの後で食べ物や飲み物を提供しました。あるいは、集った裕福な人々が食べ物や飲み物を持ち寄りました。しかし、それらの食べ物や飲み物は裕福な人々の間だけで分かち合われました。社交の場のような雰囲気だったのでしょう。他方、裕福でない人々は食堂ではなく中庭に招き入れられました。祈りや教えは中庭からも聞くことはできたのでしょうが、裕福な人々のような食べ物や飲み物は提供されず空腹のまま放置されていました。パウロが言うように「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であったのです。キリストの十字架を記念する聖餐式が、このような食事の途中かあるいは後で行われたのかもしれません。しかし、それはこの世の地位や豊かさによって差がつけられるような世俗的な食事と結び付けられていて、本来の「主の晩餐」すなわち聖餐式としての機能を果たしてはいなかったのでした。教会がキリストの恵みを分かち合う場所であるということから考えますと、このようなことは異常なことでした。しかし、当時のコリント教会の一部の人々、つまり裕福な人々にとってはごく普通のことだったのです。
パウロはこのような異常な事態を正すために22節で厳しい叱責の言葉を述べます。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。」 (3月24日の説教より)