それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。   (使徒15:19)

 エルサレムの使徒会議で、主の兄弟ヤコブが、異邦人がキリストを信じる信仰のみによって救われることこそ神の意思であると示唆したことによって、議論の大勢は決着しました。「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」という結論が導き出されました。すなわち、キリストを信じて神に立ち帰る異邦人に、割礼などの行いを要求してはならないということでした。かくして、アンティオキア教会で起こった「異邦人はモーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないかどうか」という問題は、「割礼を受けなくてよい」ということで決着したのであります。
ところが、それにもかかわらず、ヤコブは「ただ偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです」(20節)とつけ加えます。この教えは、私たちを大いにとまどわせます。割礼は受けなくてもよいが、ここに述べられているようなかくかくしかじかのことを守らなければ救われないという意味だとすれば、教会の決定がユダヤ人の律法主義に逆戻りしてしまったことになるからです。
しかし、ヤコブはこれらのことを救いの条件として命じているのではありません。むしろ、キリストを信じて救われた異邦人クリスチャンが、ユダヤ人のクリスチャンをつまずかせないための愛の配慮として命じているのです。たとえば、異邦人とユダヤ人が共に礼拝を守る教会で、異った習慣を持つこれらの人々が共に食卓をかこむ機会も多かったに違いありません。異邦人のクリスチャンが、ユダヤ人の食物の掟に全く配慮しなかったとすれば、ユダヤ人のクリスチャンは自分たちの習慣が全く否定されたと受け止めて、教会の交わりから離れてしまう恐れがありました。ですから、クリスチャンはただ信仰によって救われるので、救われるためには何を食べてはならないというようなことはないのですが、未だ食物の掟に縛られている人々に配慮して、あえてここに記されているような食物を避けた方がよいという意味なのです。             (1月27日の説教より)