では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。           (一コリント9:18)

パウロにとっては、キリストの福音を宣べ伝えることは「そうしなければならない必要があるから」しているにすぎないことでした(16節の私訳)。すなわち、「強いられて」していることで、「ゆだねられている務め」でありました(17節)。そして、キリストの福音を宣べ伝えることがゆだねられているのは、パウロだけではありません。コリントで力強い伝道をしたアポロもそうですし、早くからキリストの弟子であったペトロもそうです。それでは、パウロがアポロやペトロと違うことは何だったのでしょうか。それは、パウロが教会から報酬を受ける権利を用いないで、無報酬でキリストの福音を宣べ伝えていたことでした。9章の4節から6節に書かれていることから推測しますと、アポロやペトロは教会から報酬を受けてキリストの福音を宣べ伝えていたと考えられます。
そこで、パウロは思い切って18節で、上のように記しています。すなわち、パウロにとって報酬とは「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え」ることだというのです。無報酬が報酬であるというのは、たいへん奇妙な言い方のように聞こえます。これはいったいどういうことなのでしょうか。パウロは無報酬でキリストの福音を宣べ伝えることについて、15節で「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と書いていました。つまり、無報酬でキリストの福音を宣べ伝えることこそが、パウロの誇りだったのでした。その誇りを保ったままでキリストの福音を宣べ伝えることができれば、それが自分にとっては報酬になる、とパウロは述べているのです。さらに前の12節の終わりのところでは、パウロは報酬を受ける権利を用いないでキリストの福音を宣べ伝えるのは、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と考えているからだと記しています。こうして考えてみると、パウロは、キリストの福音を少しでも妨げないように無報酬で宣べ伝えており、それができていること自体が誇りであり報酬であると言っているということがわかります。
(12月2日の説教より)