わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。         (一コリント9:11)

 パウロは実際の種蒔きと収穫のことから、霊的な種蒔きと物質的な収穫のことに話を進めます。すなわち、11節で「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」と問いかけています。これは、説教をしてキリストの福音を宣べ伝えることを種蒔きにたとえ、説教を聴いて養われた会衆の献げ物から報酬を受け取ることを収穫の刈り入れにたとえています。このたとえを理解するためには、二つのことを知ることが求められます。
 一つは、キリスト教会の礼拝において、目には見えないけれども実体のあるものが提供されているということです。福音の説教を通して、この地上にはおられないキリストの恵みが伝達され、自分では解決することのできない罪が赦され、死ぬべき体に永遠の命が注がれて、新しく生きる力が与えられるのです。福音の説教は苦難の中で生きる力を与えます。これは神の聖霊の働きによって与えられるものですから、パウロは「霊的なもの」と呼ぶのです。
 もう一つは、生きる力を与えられた人がその生きる力によって働いて得たものを神様に感謝して献げるということです。神様を信じない人は、自分で働いて得たものは当然自分の力だけで得たものだと考えます。しかし、神様を信じる人は、働く力も神様から与えられたものだから、自分が働いて得たものも実は神様から与えられたものだと考えます。そして、働く力を与えてくださった神様に感謝して、感謝の献げものをするのです。パウロはこの献げものを「物質的なもの」という意味で「肉のもの」と呼びます。「肉のもの」というのはギリシア語のサルキコスという言葉を文字どおり翻訳した表現ですが、この場合はむしろ意味をとって「物質的なもの」と翻訳した方がよいでしょう。福音派の教会で用いられている新改訳聖書はこの箇所を「物質的なもの」(第三版と2017)と翻訳しておりますし、最近の英語の聖書も“material things”(ESV、物質的なもの)と翻訳しています。「霊的なもの」の力によって「物質的なもの」が生み出されるのですから、「霊的なもの」を受けた人は「物質的なもの」を神様に献げ、その献げものの中から「霊的なもの」を提供した人は報酬を受けるということなのです。  (11月4日の説教より)