知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。     (一コリント8:10)

 コリント教会の中には、自分の知識を誇る信徒たちがいました。その信徒たちは「偶像はモノにすぎないのだから何も無いのと同じなのだ。だから、偶像礼拝の儀式に参加しても何の問題もないのだ」「食物自体には、人間を神様のもとに導いたり神様から遠ざけたりする力はないのだから、どこで何を食べてもよいのだ。だから、偶像礼拝の神殿で偶像に供えられた肉を食べても何の問題もないのだ」と主張していました。パウロは、これらの主張はクリスチャンとしての健全な生活を造り上げるものではなく、反対に、クリスチャンとしての健全な生活を破壊して、偶像を礼拝していた時代の生活にクリスチャンを逆戻りさせるものだと考えました。特に「弱い人々」にとって、これらの人々の主張や行動は「罪に誘う」ものであり、弱い人々に、偶像礼拝の儀式に参加して偶像の神殿で偶像に供えられた肉を食べてもよいのだ、と思わせるようにものだと考えたのです。
 それにしても、「弱い人々」が偶像礼拝の儀式に参加して偶像の神殿で偶像に供えられた肉を食べてもよいのだと思うようになることを、「その良心が強められて」と表現しているのは、不思議な気がします。「良心が強められる」というのは、本来ならば善いことをするようになるのを指すはずです。しかし、ここでは悪いことをするようになるのを「良心が強められる」と言っているのです。なぜでしょうか。実は「強められる」と翻訳されているのは、オイコドメオーという動詞の受け身形で、文字どおりに翻訳すれば「造り上げられる」ということです。パウロは8章1節で、知識ではなく愛が人を「造り上げる」ということを述べていました。それでは、知識を誇っているとどういうことになるのでしょうか。パウロはここであえて1節と同じ「造り上げる」(オイコドメオー)という言葉を使うことによって、「偶像は無である」という知識や「食物自体には人間を神様のもとに導いたり神様から遠ざけたりする力はない」という知識を誇っているならば、クリスチャンでありながら偶像礼拝をするような信徒を造り上げることになりますよ、と鋭い警告を発しているのです。           (10月7日の説教より)

==以下、月報に記された詳細版です===

説教「罪に誘うことのないように」
コリントの信徒への手紙一8:7-10

 偶像になじんできた習慣にとらわれる
 本日の箇所の最初の7節には「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」とあります。「この知識」とはどのような知識でしょうか。すぐ前の6節を見ますと「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」とありますから、「この知識」とは、唯一の父なる神と唯一の主イエス・キリストがおられるという知識だということがわかります。ところが、パウロによれば、クリスチャンであっても「この知識がだれにでもあるわけではありません」というのです。なぜなら、「今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて」いるからです。キリストを信じて洗礼を受けたとしても、子どものころから偶像礼拝になじんできたので、主の日には教会で礼拝をささげ、別の日には神殿に行ってギリシア神話の神々を礼拝し、神殿の食堂で偶像に供えられた肉を食べる生活をしている信徒たちがいたのです。パウロはこのような信徒たちを「弱い人々」(9節)と呼んでいます。
 そして、そのような信徒たちは「肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚される」というのです。「それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず」とは、偶像の神様が現実に存在しており、その偶像の神様にささげられた肉はほかの肉とは違う特別な肉であると信じてしまうということでしょう。また、「良心が弱いために汚される」というのは、自分のしていることが善いことか悪いことかわからなくなり、悪いことをするようになってしまうということでしょう。つまり、神殿の食堂で偶像に供えられた肉を食べるときに、聖書の神様だけでなく偶像もまた神様であり、偶像を礼拝してもかまわないのだと思ってしまう、ということなのでしょう。
 偶像の神殿で食事の席に着く
 ところが、この箇所については、これまでお話ししたのとは違う別の解釈があります。それは「肉を食べる際に」というのが、神殿の食堂で偶像に供えられた肉を食べるときのことではなく、市場で売られている肉を買って家で肉を食べるときのことだ、という解釈です。その根拠になるのは、ずっと後の10章25節に「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」書かれていることです。つまり、この解釈によれば、パウロが8章1節から11章1節で論じていることの中心は、ギリシア神話の神々をまつる神殿でいけにえとして供えられた後、市場で売られている肉を食べてよいかどうかという問題だというのです。しかし、この解釈には無理があります。なぜなら、パウロは本日の箇所の10節で「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」とあるからです。つまり、ここで取り上げられている問題は、コリント教会の信徒たちが「偶像の神殿で食事の席に着いている」ということが適切かどうかという問題なのです。しかも、「市場で売っているもの」についての問題が取り上げられる前に、パウロは10章14節で「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」とクリスチャンの行動の原則を教えています。問題が単に市場で売られた肉を食べてよいかどうかということであれば、このような原則をあえて教える必要はなかったでしょう。コリント教会の信徒たちのしていることが偶像礼拝とみなされることであったからこそ、パウロはあえて「偶像礼拝を避けなさい」と書いたのです。
 このように、パウロは、7節で偶像の神殿の食堂で偶像に供えられた肉を食べる信徒たちがいるということを指摘しました。そして、次の8節では「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と述べています。パウロは、偶像の神殿の食堂で偶像に供えられた肉を食べることがなぜ問題であるのかということを、コリント教会の信徒たちにわかりやすく説明しようとしています。そして、まず、肉という食物自体に人間を神様のもとに導いたり、神様から遠ざけたりする力があるわけではないということを確認しているのです。これはパウロの考えであると同時に、おそらくコリント教会の信徒たち自身もしていた主張だったのでしょう。なぜなら、次の9節には「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」とあるからです。つまり、「あなたがたのこの自由な態度」というのは、肉という食物自体に人間を神様のもとに導いたり、神様から遠ざけたりする力があるわけではないのだから、どこで何を食べてもよいのだという態度であったと考えられるのです。パウロとコリント教会の信徒たちは、肉という食物自体に問題があるのではないということで考え方が一致していました。
 偶像礼拝へと誘うことのないように
 それでは、パウロはコリント教会の信徒たちとどのようなところで考え方が違っていたのでしょうか。それは次の9節にありますように、パウロには「弱い人々を罪に誘うことにならないように」気をつけるという大切な考え方がありました。しかし、コリント教会の信徒たちにはそのような考え方がありませんでした。その点が大きく違っていたのでした。そこで、パウロは「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と警告をしているのです。「自由な態度」と訳されているエクスーシアというギリシア語は、権利とか権威とも訳すことのできる言葉です。コリント教会の信徒たちは、肉という食物自体には問題がないのだから食べたいところで肉を食べる権利がある、というように考えていたのでしょう。
 しかし、そのような権利を主張することは、弱い人々を罪に誘うことになる恐れがありました。なぜでしょうか。それは、10節にありますように、「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」という理由からです。この10節は「ならないだろうか」という疑問文の形で書かれていますが、「ならないだろうか。きっとなるだろう」という意味です。
 8章の1節からここまで書かれていたことを振り返って、どのような状況であったのかを考えてみましょう。コリント教会の中には、自分の知識を誇る信徒たちがいました。「偶像は無である」という知識や「食物自体には人間を神様のもとに導いたり神様から遠ざけたりする力はない」という知識を誇っていたのです。それらの自分の知識を誇る信徒たちは、「偶像はモノにすぎないのだから何も無いのと同じなのだ。だから、偶像礼拝の儀式に参加しても何の問題もないのだ」と主張していました。また、「食物自体には、人間を神様のもとに導いたり神様から遠ざけたりする力はないのだから、どこで何を食べてもよいのだ。だから、偶像礼拝の神殿で偶像に供えられた肉を食べても何の問題もないのだ」と主張していました。パウロは、これらの主張はクリスチャンとしての健全な生活を造り上げるものではなく、反対に、クリスチャンとしての健全な生活を破壊して、偶像を礼拝していた時代の生活にクリスチャンを逆戻りさせるものだと考えました。特に「弱い人々」にとって、これらの知識を誇る人々の主張や行動は「罪に誘う」ものであり、弱い人々に、偶像礼拝の儀式に参加して偶像の神殿で偶像に供えられた肉を食べてもよいのだ、と思わせるようなものだと考えたのです。
            (2018年10月7日の説教より)