このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。      (一コリント7:35)

コリント教会においては、一方では、近親相姦をするような信徒やアフロディーテ神殿の娼婦のもとに通うような信徒がおり、性のモラルの乱れた状態でした。他方では、それらに対する反動として、夫婦であっても共に寝ることを否定するような極端に禁欲的な信徒がいました。極端に禁欲的な信徒の考え方に従えば、未だ結婚はしていないクリスチャンたちは、結婚するべきではなかったし、もし婚約していたならば婚約を解消して別れるべきということになりました。つまり、極端に禁欲的な信徒は、結婚は悪であると言って未婚の信徒を束縛していたのです。ところが、パウロは独身生活の幸いを述べているけれども、それはコリント教会の極端に禁欲的な信徒のように、他の信徒を束縛するためではないというのです。「あなたがたを束縛する」と日本語に訳されているのは、ギリシア語原典では「あなたがたの首に投げ縄を投げる」という意味の言葉です。投げ縄のたとえから想像できるように、禁欲主義で人を束縛することはその人を生かすのではなく殺すことにつながります。しかし、パウロが独身生活の幸いを述べるのは、人を生かして「品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」
パウロは先に7節のところで「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と書いていました。つまり、パウロ自身が独身であることによって、品位のある生活をしてひたすら主に仕えることができることを知っていたのです。しかし、「人はそれぞれ神から賜物をいただいている」とありますように、独身ということは自分の力で達成できることではなく、神から与えられた賜物であるとパウロは言っています。ですから、パウロは、すべてのクリスチャンが独身生活をしなければ駄目だと言っているのではありません。独身生活の賜物のある人は、品位のある生活をしてひたすら主に仕える幸いを得ることができると説明しているのです。
               (9月9日の説教より)