おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
(一コリント7:17)
私たちは福音書に記された弟子の召命の記事も決して軽んじることはできません。しかし、それはキリストの最初の弟子たちについての記事であり、いつの時代のどのクリスチャンにもそのまま適用できるものではない、ということに注意すべきです。むしろ、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」ということこそ、「これは、すべての教会でわたしが命じていることです」とありますように、クリスチャンの信仰生活の原則なのであります。
原則であるということは例外もあります。つまり、自分がクリスチャンとして召されたときの職業を捨てて、キリストの弟子として生きる場合であり、今日で言えばキリスト教の伝道者になることがそれに当たると言えるでしょう。しかし、それでもキリストの最初の弟子たちと今日のキリスト教の伝道者がまったく同じわけではありません。キリストに従って各地を旅して歩いた最初の弟子たちとは違って、今日のキリスト教の伝道者は一つのところにとどまって伝道し続けるからです。また、教会の組織というものがなかった最初の弟子たちとは違って、今日のキリスト教の伝道者は一つの組織にとどまって伝道するからです。他方、伝道者でない一般の信徒の方々は、自分の家庭、自分の職場、自分の地域にとどまって、クリスチャンとしての信仰生活を続けていきます。そして、自分の家庭、自分の職場、自分の地域に徐々にクリスチャンとしての証しをしていくのです。これは、考えようによっては自分の職業を捨てて伝道者になることに勝るとも劣らないくらい忍耐を要することだと言えるでしょう。そして、忍耐を要することであるからこそ、たいへん価値のあることであると言えるでしょう。なぜなら、自分の家庭、自分の職場、自分の地域にとどまるクリスチャンによって、キリストの福音が徐々に家庭や職場や地域に浸透していくからです。「召されたときの身分にとどまる」信仰生活は、長い時間をかけてキリストの福音を証ししていく、堅実な信仰の生活なのです。
(8月12日の説教より)