というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
                (一コリント7:22)

パウロのこれらの教えを理解する上で、助けになる別の手紙があります。それは新約聖書の中のフィレモンへの手紙という手紙です。フィレモンへの手紙は、パウロが小アジアつまり今のトルコにあった、コロサイ教会の信徒であるフィレモンに書いた手紙です。フィレモンは自由人で家に奴隷たちをもっている裕福な人であったと思われます。そして、この手紙の中にはオネシモという人が登場します。オネシモはかつてフィレモンの家の奴隷でしたが、逃亡してローマに来ました。そして、裁判を受けるためにローマで監禁されているパウロに出会い、キリストの福音を聞いてクリスチャンとなりました。パウロは逃亡した奴隷であるオネシモにこの手紙を持たせて、主人であるフィレモンのところに送り帰すことにしました。そして、手紙の中の15節〜16節でフィレモンに次のように書いています。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。」
驚くべきことに、この手紙には逃亡した奴隷は主人のもとに帰るべきだというような常識的な教えは見られません。むしろ、パウロは、オネシモが逃亡してローマに来たのは、ローマでクリスチャンになって、クリスチャンとしてフィレモンと共に生きるためであったと言っているのです。つまり、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」共に生きるというのです。社会的な身分からいえば、オネシモは奴隷でフィレモンは主人だとしても、キリストとの関係では共にキリストに仕える兄弟だから、愛する兄弟としてオネシモを迎えてくださいと、パウロはフィレモンに書いています。つまり、クリスチャンとなった人は、キリストとの関係で自由を得ると同時に、キリストに仕える僕となったのだから、クリスチャンの主人とクリスチャンの奴隷は、共にキリストに仕える僕であり兄弟であるということです。  (8月19日の説教より)