しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。 (一コリント7:1)
少し後の7節で「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」とありますから、パウロは誰もが皆結婚しなければならないと考えているのではありませんでした。パウロの考えでは、独身で生きて神に仕えるというのは神から与えられた一つの賜物であって、独身の賜物のない人は結婚しなさい、ということなのです。独身の賜物のない人は結婚しなさいと言うと、結婚ということについて随分否定的なことを言うように聞こえるかもしれません。この世では、結婚ということは人生に幸せをもたらすものとして考えられていますので、パウロの考えはおかしいのではないかと思われる方もあるかもしれません。
しかし、私たちはなぜパウロがこのように言っているかをよく考える必要があるでしょう。それは、先ほども申しましたように、コリント教会の中には、一方では父親の若い妻と関係をもったり娼婦のもとに通ったりする信徒たちがいたと思えば、他方では男女の関係をまったく否定して完全な禁欲を求めるような信徒たちもいたということです。性欲の赴くままに異性と関係をもつことが正しくないのは言うまでもありませんが、性欲を悪と決めつけて異性との関係を否定することも正しいことではありません。私たちは、創世記において「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世2:24)と教えられていることに従って、男女の関係を考えるべきなのであります。もし、性欲を悪と決めつけるならば、男と女を互いに結ばれるように造ってくださった神様の恵み深い意思を否定することになります。しかし、性欲を野放しにするならば、一体とされた男女の関係が崩壊してしまい、「二人は一体となる」という神様の秩序を破壊することになります。そこで、パウロはきわめて現実的な選択肢として、「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と命じているのです。
(7月8日の説教より)