あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。

 コリント教会には、お金か財産に関する争いがあり、ある信徒が他の信徒をこの世の裁判所に訴えていたようです。このことについてパウロは、信徒の間に争いがあるときには、いきなりこの世の裁判所に訴えることをしないで、まず教会の中でキリストによって義とされた者同士として話し合い、さらに教会の指導者に仲裁してもらって解決すべきであると考えています。2節の「聖なる者たちが世を裁くのです」という言葉は、大変唐突に響きます。一体何のことを言っているのだろうと思う方もあるでしょう。これは終わりの日の最後の審判において、永遠の命を受けたクリスチャンがキリストと共にこの世を裁く座に着くということなのです。旧約聖書のダニエル書には「天下の全王国の王権、権威、支配の力は いと高き方の聖なる民に与えられ その国はとこしえに続き 支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」(ダニエル7:27)と記されています。またヨハネの黙示録にも「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように」(黙示2:26-27)と預言されています。
 それでは、パウロはなぜここで最後の審判のことを持ち出して「聖なる者たちが世を裁くのです」と言ったのでしょうか。それは、コリント教会の信徒たちに、終わりの日に彼らに与えられる栄光ある立場を思い起こさせるためだったのでしょう。クリスチャンは現在の自分というものを、終わりの日に与えられる栄光の光に照らして理解するものです。人は過去の様々な出来事を思い起こして「ああいうことがあったから私はこうなった」というように過去とのつながりで自分を理解しようとします。また、現在の自分についての印象で「私は幸福だ」「不幸だ」などと言いがちです。しかし、キリストの十字架と復活を信じて、キリストの後に従うクリスチャンは、現在の自分を終わりの日にキリストと同じ永遠の命と栄光を与えられるという希望の光の下で見るのです。      (4月30日の説教より)

===以下は、月報に記載された内容です==

コリントの信徒たちの裁判沙汰
 これまで何度も申し上げてきたように、コリントという都市の文化は、ビジネスの成功を求める人々の実用主義の文化でした。そして、この世の利益を重視する考え方が、そのような都市に住むコリントの信徒たちの心の中に残っていたとしても、それは不思議ではありません。これまで私たちはコリント教会にさまざまな問題があったことを見てきました。コリント教会の信徒たちは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと言い合って互いに対立していました。また、教会の信徒の中にみだらな行いをする者がおり、それが黙認されているような状態でした。それらに加えて、本日の箇所を読みますと、コリント教会の信徒たちの間にはお金か財産にかかわるような争いもあったということがわかります。
 1節には「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」とあります。「聖なる者たち」とは教会の信徒、クリスチャンのことであり、「正しくない人々」とはこの世に属する人々のことです。「聖なる者たち」とか「正しくない人々」という言い方を聞きますと、クリスチャンは完全に正しくて、この世の人々は完全に正しくないとパウロが言っているかのように聞こえるかもしれません。しかし、ここはそのような意味ではありません。すべての人は罪人なのですが、クリスチャンは神様に召されてキリストに属する者となっているので、キリストを信じる信仰によって罪赦され義とされているのに対して、この世の人々は未だ罪の赦しを受けておらず義とされていないというほどの意味でしょう。
 ここで起こっている争いは、わかりやすく言えば次のようなことでしょう。コリント教会の信徒のAさんとBさんの間で、お金か財産にかかわる争いが起こりました。損害を受けたと主張しているのがBさんの方であるとしましょう。Bさんは共にキリストを信じる信仰によって罪赦され義とされている者として、できる限り赦し合いながらAさんと話し合い、必要ならば教会の指導者たちの仲裁を求めて解決に努めるべきでした。ところが、Bさんはこの世の人々と同じ感覚で、直ちにこの世の裁判所に訴えてしまったのでした。AさんとBさんの間の問題がお金か財産にかかわることであるのは、後の7節で「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」とパウロが記していることからもわかります。パウロの考えによれば、キリストを信じて罪赦され義とされた者は、不義を甘んじて受け奪われるままでいるくらいの心構えがあってしかるべきだ、というのです。これはたいへん厳しい言葉ですが、キリストの十字架によって救われた者は、キリストの十字架に従う道を歩むべきだと考えれば、理解できることです。ところが、Bさんはそのようなクリスチャンとしての深い考えもなく、この世の人々と同じようにこの世の裁判所に訴えて、問題を解決しようとしたのでした。そこで、パウロは、そのようなことを「なぜするのです」と厳しく問いかけているのです。

 終わりの日の栄光に照らして
 クリスチャン同士、信徒同士の間に争いがあるときは、いきなりこの世の裁判所に訴えるようなことをしないで、まず教会の中で、キリストを信じて義とされた者同士として話し合い、必要ならば教会の指導者に仲裁してもらって解決すべきであるというのが、パウロの考えです。その理由をパウロは2節のところで次のように説明しています。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなた方によって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」        「聖なる者たちが世を裁くのです」という言葉は、大変唐突に響きます。一体何のことを言っているのだろうと思う方もあるでしょう。これは終わりの日の最後の審判において、永遠の命を受けたクリスチャンがキリストと共にこの世を裁く座に着くということなのです。旧約聖書のダニエル書には「天下の全王国の王権、権威、支配の力は いと高き方の聖なる民に与えられ その国はとこしえに続き 支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」(ダニエル7:27)と記されています。またヨハネの黙示録にも「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように」(黙示2:26-27)と預言されています。
 それでは、パウロはなぜここで最後の審判のことを持ち出して「聖なる者たちが世を裁くのです」と言ったのでしょうか。それは、コリント教会の信徒たちに、終わりの日に彼らに与えられる栄光ある立場を思い起こさせるためだったのでしょう。クリスチャンは現在の自分というものを、終わりの日に与えられる栄光の光に照らして理解するものです。人は過去の様々な出来事を思い起こして「ああいうことがあったから私はこうなった」というように過去とのつながりで自分を理解しようとします。また、現在の自分についての印象で「私は幸福だ」「不幸だ」などと言いがちです。しかし、キリストの十字架と復活を信じて、キリストの後に従うクリスチャンは、現在の自分を終わりの日にキリストと同じ永遠の命と栄光を与えられるという希望の光の下で見るのです。
 もちろん、これが行きすぎて、この世に生きていながらこの世をすべて超越しているかのように思い上がってはなりません。しかし、終わりの日にキリストと同じ栄光を受ける者とされるということを信じておりますならば、この世のお金や財産の問題に大きく振り回されることはないでしょう。ましてや、共にキリストと同じ栄光を受けるであろう仲間を、軽々しくこの世の裁判所に訴えるというような行いは、慎むことができるでしょう。先ほどのAさんとBさんという話で言えば、信仰の仲間であるAさんをこの世の裁判所に訴えたBさんは、おそらく自分が損害を受けたということで頭がいっぱいになっていたのでしょう。そして、この世の常識に従って、Aさんをこの世の裁判所に訴えたのでしょう。もしBさんがクリスチャンでないこの世の人であったとしたら、Bさんのしたことは当然です。しかし、クリスチャンである以上、Bさんは問題の解決のしかたをよく考えて、この世の裁判所に訴える前にクリスチャンとしてよく話し合い、必要であれば教会の指導を受けて解決すべきであったのです。
 パウロは2節の後半で「世があなた方によって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか」と苦言を呈しています。お金や財産の問題を「ささいな事件」と言うのはどうしてだろう、と思われる方もあるかもしれません。お金や財産の問題はささいなことではなく重要なことだ、と思われる方もあるでしょう。これは、クリスチャンが終わりの日に受ける栄光に比べるならば「ささいな事件」だということです。そして、よく考えてみますと、クリスチャン同士の間で起こる事件というのは結局は「ささいな事件」ではないでしょうか。クリスチャンの間でも立場の違いによって対立が起こることがあります。そして、それによって深く自分が傷つけられたと思うこともあるでしょう。しかし、それは終わりの日に受ける栄光に比べれば「ささいな事件」ではないでしょうか。また「ささいな事件」として赦し合って解決していくべきことではないでしょうか。クリスチャンの問題解決のカギは、終わりの日に与えられる栄光の光に照らして、自分や自分に起こった事件を見るということです。クリスチャンである者は「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの精神に基づき、終わりの日に栄光を受けるという希望をもって、問題の解決に努めたいものです。 (2018年4月29日の説教より)