聖  書  コリントの信徒への手紙一5:12-13

外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

 ここでパウロは、教会の内部が教会の外部とは違って、神のみことばに従って裁きがなされ治められねばならないということを教えています。「裁く」というのは、具体的に言えばすぐ前の11節にありますように、悪を行う者に対する聖餐の陪餐の停止ということでしょう。これは教会においてキリストの恵みが正しく分かち合われるために必要な処置です。しかし、それは厳しすぎるのではないかという印象を持つ方もおられるかもしれません。たとえば、キリストは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(マタイ7:1)と教えておられます。キリストが「人を裁くな」と教えておられるのに、パウロは人を裁いているではないか、と思われるかもしれません。

 しかし、キリストが「人を裁くな」と教えておられるのは、それに続く箇所で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(同7:3)とありますように、個人的な非難攻撃をしてはならないということなのです。そして、パウロが「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」という場合の「裁く」とは、個人的な非難攻撃ではなく、信仰共同体を正しく保ち、罪を犯した人を悔い改めに導くための裁きです。同じ「裁く」という言葉が用いられていても、キリストが「裁いてはならない」というときの裁きは、自分本位の基準で他人を非難攻撃することであり、パウロが「裁くべき」というときの裁きは、神のみことばという基準で信仰共同体を治めていくことなのです。ところが、往々にしてこれらの別々のことが混同されてしまい、キリストが「裁いてはならない」とおっしゃったので、教会はどんなに悪く悔い改めない人が内部にいてもただじっと我慢するしかないのだ、と思われがちです。しかしそれでは、人間的な悪が支配する無秩序な共同体になってしまい、キリストの恵みが支配するという教会本来のあり方から遠く離れたものとなってしまうでありましょう。  (4月22日の説教より)