聖  書  マルコによる福音書16:1-8

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 この場面は、婦人たちにとって理解できず受け入れられない出来事が起こったために、彼女たちが非常に恐れたということです。それは、死という限界の中にある常識的な人生観が揺り動かされることから来る恐れであったのでしょう。キリストの復活という出来事は、常識的な人生観を揺り動かし打ち砕く出来事なのであります。
 それでは、死の限界を超える人生観とはどのようなものでしょうか。既に天に召された平田正夫先生の「復活の主」という説教を読むと、そのことがよく分かります。
 「ある年老いた婦人が、段々体が弱っていくにつれて『死にたくない。死にたくない』と言うので、家族の者も暗い気持ちになって、『おばあちゃまの部屋にいくのがいやになる』というようになった。死んだ後にどうなるのかわからず、どこか暗いところに落ちこんでいくのではないか、と不安で不安でたまらなかったのであろう。多くの人は、口にこそ出さないが、この老婦人と同じように、死を恐れ、不安のうちにいるのではなかろうか。
 日曜学校に通っていた一人の子供が重病にかかって、死んでいった。その臨終のとき、『イエスさまが側にいて下さいます。おとうさんもおかあさんもしんぱいしないで下さい』と言って息をひきとったのでした。その顔は、ほんとうに安心しきって、美しく、清らかであったので、両親も心を打たれ、後に教会に足を運ぶようになったのであった。
 パウロもまた死期が近づいたとき、『今や義の冠がわたしを待っているばかりである』(二テモテ4:8)と言って、死んだ後、神のみもとに迎えられ、祝福を受ける希望と喜びに満たされているのである。
 老婦人は死を恐れ、パウロは希望と喜びに心をふくらませて、死に対している。この相違はどこからくるのであろうか。老婦人は天地創造の神を知らず、御子キリストの復活を知らないゆえに、死が暗黒そのものであった。他方、パウロは、天地創造の愛なる神を知り、復活の御子キリストを信じ、キリストのうちに生き、キリストと共に生きる確かさを持っていたからである。」 (4月1日の説教より)