聖  書  コリントの信徒への手紙一5:6-8

あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。
だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

この箇所でパウロは、イスラエルの民の解放を記念する過越の祭のたとえを用いて、キリスト教会の形成とクリスチャンの生活のあり方を教えています。すなわち、「パン種」とはみだらな行いをする信徒のことであり、「練り粉」とは教会という信仰共同体のことであります。そして、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」とは、過越の祭のときに古いパン種を取り除いた新しい練り粉でパンを作るように、みだらな行いをする者を除外して、教会がキリストの恵みによって生きる清い信仰共同体になるようにしなさいということです。すなわち、罪の要素を取り除いて、純粋にキリストの恵みによって教会という信仰共同体が形成されるようにしなさいということを教えているのです。
 イスラエルの民が過越の祭を祝う根拠は、出エジプトという神の救いの御業でありました。すなわち、過越の子羊の犠牲によって、イスラエルの民が神の裁きの災いを受けることなくエジプトを脱出できたということでありました。そして、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」とありますように、クリスチャンが教会という信仰共同体を形成して、罪から解放された新しい生活をすることのできる根拠は、イエス・キリストの十字架上の犠牲なのであります。すなわち、キリストの十字架と復活によって、それを信じる者が罪と死から解放されたということが、新しい生活の根拠なのです。たとえクリスチャンの中に罪が残っているとしても、それはキリストの十字架と復活により既に支配の力を失っております。むしろ、キリストの恵みにより義とされ聖とされるという恵みの力の方が支配しているのです。このキリストの恵みに絶えず心を向け、キリストの恵みを新たに信じ続けることによって、クリスチャンとキリスト教会は罪の力による腐敗から守られるのです。ただキリストの恵みに目を注いで、絶えず清められる者でありたいと願います。
                 (3月18日の説教より)