聖書のことば  コリントの信徒への手紙一3:10-11

わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。
イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

 パウロがコリント伝道において「熟練した建築家のように」(10節)据えた土台とは、イエス・キリストという土台でありました。しかも、それは「十字架につけられたキリスト」(一コリント2:2)でありました。それでは、キリストという土台を無視して、誰かが据えようとする「ほかの土台」とは一体何なのでしょうか。それは、おそらく人間的な知恵のことなのでしょう。

 「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(同2:1-2)とパウロは記しています。ここでは「十字架につけられたキリスト」と対立するものとして、「優れた言葉や知恵」が挙げられています。古代のギリシアには雄弁の術を教えるソフィストという教師がおり、人々は雄弁の術を身につけて立身出世することを目指していました。そのような考え方がクリスチャンとなってからも残っていたために、コリントの信徒たちは人間的な雄弁さを重んじる傾向を持っていたのでしょう。そこでパウロは、2章1節で自分が「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」ということを強調して述べ、本日の箇所では「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」という強い警告を発しているのであります。つまり、パウロはコリント教会の指導者たちには、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えないで、人間的な知恵や雄弁さによって伝道して教会を成長させようとするような傾向があることを見抜いていたからこそ、そうしてはならないと警告しているのです。人間的な知恵や雄弁さは、いかにそれが優れたものであったとしても、「十字架につけられたキリスト」に代わるものとはなり得ません。なぜならば、人間的な知恵や雄弁さは、その上に建てられる教会の重みに耐え得ないからであります。        (11月19日の説教より)