聖書のことば  コリントの信徒への手紙一2:8-11

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。

人間は全能の神様に比べれば、限界のある小さな存在に過ぎません。それでも、一人の人の心の中には外から見たのでは推測することのできない深みというものがあります。たとえば、ある場合にはその人の深みにすばらしい宝のようなものが埋もれていて、あの平凡な人にどうしてこのようなすばらしいことができたのだろうと、周囲の人々を驚かすことがあります。反対に、ある場合には深みに恐ろしい毒のようなものが隠されていて、あの善い人がどうしてこのような恐ろしいことをしたのだろうと、周囲の人々に恐怖を抱かせる場合もあります。
有限で小さな存在である人間の心ですら、外から見たのでは認識できない深い思いがあります。ましてや、全能で偉大な存在である神様の思いは、人間の知恵によって様々な現象を観察して外から推し量ろうとしても、決して理解することはできないでしょう。「神の霊以外に神のことを知る者はいません」とありますように、神様の深い御心は、ただ神の霊だけが知っており、神の霊の働きを受けて初めて理解することができるのであります。ですから、「十字架につけられたキリスト」という「神の深み」を理解するためには、神の霊すなわち聖霊の働きを受ける以外にないのであります。
宗教改革者のカルヴァンは「われわれのたましいは、御霊(聖霊)によって照らされるとき、さきにはその輝きによって目をくらませられていた天上の奥義を注視する、いわば新しい視力を得る」(『キリスト教綱要』3篇2章34)と記しています。「十字架につけられたキリスト」は、この世の知恵によれば愚かなものに思われますが、実は天国の栄光に至る奥義であり、それは聖霊によって初めて正しく認識できるということです。聖霊を受けて「十字架につけられたキリスト」を理解するために、私たちは何よりも聖霊の働きを祈り求めたいと思います。キリストは「だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:10)と教えておられます。 (10月8日の説教より)