十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 (一コリント1:18)
先週の説教で、キリストの十字架を告げる福音の説教は、ちょうど遺言書のような性質を持っているということをお話しいたしました。遺言書はその人が死んだ後、誰に何を相続させるかということを記す文書です。ですから、読む人にとっては、内容が面白いかどうかではなく、自分が何を相続できるかということが重要なのです。キリストの十字架を告げる福音の説教もそれと似ています。つまり、福音の説教においては、キリストが私たちのために十字架上で死んで復活したということを信じるならば、一体何を受け取ることができるか、ということが重要なのです。聖書によれば、それは罪の赦しと永遠の命です。
キリストの十字架を信じて罪の赦しと永遠の命を受けるということを聞くと、多くの人々は何と愚かなことを言っているのか、と思うでしょう。キリストの十字架が私に何の関係があるか、罪の赦しや永遠の命が私に何の意味があるか、と思うことでしょう。しかし、パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」と記すように、キリストの十字架は自分に何の関係も意味もない愚かなことだと考えること自体が、滅びなのです。なぜなら、キリストの十字架を否定することは神との和解を否定することであり、来るべき終わりの日の裁きにおいて神の怒りを受けることであるからです。
ところが、反対にキリストの十字架を受け入れるならば、神と和解することができます。そして、来るべき終わりの日の裁きにおいては神の怒りを免れることができます。キリストの十字架を受け入れることによって、十字架の贖罪の効力が信じる者の身に及び、罪赦されて救われるからです。そして、永遠の滅びではなく永遠の命を受けることができるからです。福音の説教はこの救いを提示します。キリストの十字架による罪の赦しと永遠の命を差し出します。そして、「わたしたち救われる者には神の力です」とあるように、これを実際に受けて救われる人にとっては、十字架の言葉はまさしく救いをもたらす「神の力」そのものなのです。 (8月6日の説教より)