コリントの信徒への手紙一1:1-3

神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」とは、他の教会に属するクリスチャンたち、たとえばマケドニア州のフィリピやテサロニケなどのクリスチャンを指しているのでしょう。これらの教会の信徒たちは、「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」(フィリピ4:1)、「わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠」(一テサロニケ2:19)と呼ばれた立派な人々でした。ところが、パウロは多くの問題をかかえたコリント教会の信徒たちも、そのような立派な人々と共に「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」であり、「召されて聖なる者とされた人々」であると言うのです。すなわち、コリント教会は繁栄と享楽の町コリントからキリストの救いを得るようにと選び出された人々の群れで、今はいかに未熟でコリントの文化や風俗を引きずっているとしても、他の教会の信徒たちと同様、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」「召されて聖なる者とされた人々」だと言うのです。
 ここには、パウロがコリント教会の信徒たちに向き合う基本的な姿勢が表わされております。すなわち、パウロはコリントの信徒たちに向かって、あなたたちもフィリピやテサロニケの信徒たちのようにもっと立派なクリスチャンになりなさい、と言おうとしているのではありません。そうではなくて、コリントにいるあなたたちもフィリピやテサロニケやその他の様々な地の信徒たちと同じように「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」であり、「召されて聖なる者とされた人々」なのですよ、と認めているのです。そして、キリストの恵みを受けているという確かな事実の土台の上に立って、クリスチャンとしての生き方はこうですよ、ということを具体的にコリントの信徒たちに教えようとしているのです。(6月18日の説教より)