どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。
             (二テサロニケ3:16)

 「平和の主」とはイエス・キリストのことであります。そして、「平和」という言葉が一つの文の中に二度も出てきますのは、パウロがテサロニケ教会の平和を強く願っていたことを表わしているのでありましょう。テサロニケ教会には「主の日は既に来てしまったかのように言う者」(二テサロニケ2:2)や「怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者」(同3:11)などのいくつかの問題がありました。そして、パウロはそれらを解決するために手紙で勧告や命令を記しています。しかし、最終的に問題を解決してくださるのは、人間ではなく平和の主御自身です。教会のかしらであり、全世界の主である平和の主キリスト御自身が、問題を解決し平和を与えてくださるのです。
 私たちの信仰生活には、乗り越えねばならない大きな危機がいくつもあります。愛する人の死や自分自身の健康、人間関係や経済状態の危機というような試練があります。それらに勝るとも劣らない信仰生活の試練は、教会の混乱です。どうして教会にこのようなことがあるのか、と思えるような事態が発生したときです。そして、長い信仰生活の中では、少なくとも一度くらいはそのような経験をするものです。たとえば、学校のいじめと同じようなことが教会の中で起こったならば、皆様はどう思われるでしょうか。教会の中でそのようなことがあるなんて許せない、と思われることでしょう。もちろん一般の学校と全く同じことが起こることはないでしょうが、教会も人間の集まりでありますから、さまざまなくせのある性格をもった人々がいても不思議ではありません。そうすると、思いがけないところで人間関係のゆがみや衝突が発生し、教会の暗い面を見せられることがあるかもしれません。しかし、そのような経験をなさったとしても、キリスト教会は偽善者の集まりだなどと軽々しく言ってはなりません。なぜならば、平和の主であるキリストが教会のかしらだからです。「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」(ローマ16:20)   (6月11日の説教より)