聖書のことば テサロニケの信徒への手紙二3:10-13

実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。

パウロがここで命じていることは、一言で言えば自分で働いて日ごとの糧を得るようにしなさい、ということでしょう。しかし、ただ経済的に自立しなさいということだけが命じられているのではありません。「自分で得たパンを食べなさい」だけではなく、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」と命じられているのです。
「落ち着いて」という言葉で思い出しますのは、テサロニケの信徒へ手紙一にも、パウロが勤労を命じた言葉が記されていたことです。「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」(一テサロニケ4:11-12)この箇所から気づかされますのは、ただ「働きなさい」と命じられているのではなく、「そうすれば、~」というように、信徒たちがこの世で働くことによってどのような結果が生じるか、ということが説明されているということです。そして、この「そうすれば」と訳されているギリシア語のヒナという言葉は、英語の“so that”のように結果にも目的にも取ることができますので、「外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないために、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と訳すこともできます。
いずれにしましても、パウロの考えに従うならば、働くことの動機は生計を立てるということだけではなく、人に迷惑をかけない品位ある生活をするということでした。そして、それは最終的には、クリスチャンにふさわしいキリストを証しする生活を営むという目標を目指していました。この世の働きが日ごとの糧を生むのみならず、キリストを証しする品位ある生活という実を結ぶならば、クリスチャンにとってこれほど大きな喜びはないでしょう。    (5月21日の説教より)