聖書の言葉 テサロニケの信徒への手紙二3:1-2

主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。 (二テサロニケ3:1-2)

 本日の箇所のすぐ後の3節には「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」という主に対する確かな信頼を示す言葉が記されています。合理的に考えるならば、もしパウロ自身が神様の守りを確信していたのならば、どうしてテサロニケの信徒たちにこれこれこういうことを祈ってくださいと言って、祈りの支援を求める必要があったのだろうか、という疑問がわいてきます。このことをもう少し広げて考えますと、そもそも神様がすべてをご存じで何でもできる方であるならば、どうして私たちが自分の願いを神様の前に申し述べて祈る必要があるのか、神様は全知全能だから人間が祈る必要はないのではないか、という問題にもなります。
 これは祈りの本質に関わる問題です。結論を申しますと、祈るということは私たち人間の信仰の成長のために与えられている恵みの手段なのだということです。つまり、神様によくお願いしておかないと神様が配慮してくださらないから祈るのではなくて、祈ることによって神様との絆がますます強くされるからこそ私たちは祈るのです。宗教改革者のカルヴァンは祈りの目的についていくつかのことを記していますが、その中でも特に興味深い点があります。その一つは、私たちが祈るのは神様の「恵みを受け入れる備えをするため」であるということです。つまり、私たちは心が鈍いために神様から恵みを受けても、それが恵みであると気づかないで過ごしがちなのです。しかし、もし私たちが具体的に神様に何かを願い、現実にその願いがかなえられたならば、喜びと感謝をもって「ああ、これは神様の恵みだ」と言ってその出来事を受け止めるでしょう。そして、ますます熱心に神様を信じることができるようになるでしょう。祈りをすることによって、神様の恵みを、恵みとして受け入れる心の備えができるのです。  (4月30日の説教より)