説教「継続して祈る」 テサロニケの信徒への手紙二1:11-12

 神が完成してくださる
 本日の聖書の箇所の11節には「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」とあります。「その御力」とは神様の御力のことです。そして、「善を求めるあらゆる願いと信仰の働き」とは、信徒たちが心の中に持っている善を求める願いや、信仰に基づいて愛の業をなそうとする働きのことでありましょう。信徒たちのこのような願いや働きは、神様によって与えられたものですから、神様の力によって成就され全うされるということです。「成就させてくださるように」と訳されている言葉は、「満たす」「完成する」という意味のギリシア語の動詞プレーロオーの接続法・能動態であります。ですから、文法的に言えば「完成してくださるように」と訳すのが、より正確な訳し方です。その場合、完成してくださるのは誰かと申しますと、それはもちろん神様なのです。クリスチャンの善を求める願いや信仰の働きを完成してくださるのは、他ならぬ神様なのであります。

 先ほども申しましたように、「善を求める願い」や「信仰の働き」を与えてくださったのも神様です。ですから、一人の人に信仰が与えられ、その人がクリスチャンとして成長していくということは、初めから終わりまで、徹頭徹尾、神様の業なのです。さらに言い換えますならば、救いの働きの主語は一貫して神様である、ということです。神様が救ってくださり、神様が完成してくださるのです。フィリピの信徒への手紙の初めの部分でも、パウロは「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1:6)と記しています。「あなたがたの中で善い業を始められた方」というのが、神様であるということは言うまでもありません。神様は聖霊の働きによって私たちの救いを完成へと導いてくださいます。

 神様が救いを完成してくださるという確信があれば、さまざまな苦難にあっても、その苦難を乗り越えて進むことができます。神様が救いを完成してくださるという確信をもって生きるとは、具体的に言えば私たちの内に宿ってくださる聖霊に信頼し、聖霊によって歩むということです。19世紀から20世紀の初頭にかけて活躍したアルバート・ベンジャミン・シンプソンという牧師は次のように記しています。「私たちが聖霊によって歩もうとするなら、聖霊に相談しなければならない。私たちが外見上の見込みや、単なる外部の望ましい事情をあてにする時には、最もたやすく見えることも失敗し、失望することがよくある。しかし、私たちがひとたび聖霊にその道をゆだね、私たちの歩むすべての道で彼を認めるならば、最も困難で望みなく思われることも、いともたやすく、最も順調に道を開いてくださることがわかる。このように聖霊は、私たちが心を尽くしてご自身に信頼し、すべての道でご自身を認める時、私たちの歩みを導かれることを教えておられるのである。」このシンプソン牧師の言葉を私たちの生活にあてはめるとどうなるでしょうか。私たちが直面する仕事、家族、健康、お金、人間関係などの様々な課題において行き詰まりを覚えるようなことがあったとしても、私たちの内に宿ってくださる聖霊に道をゆだねるならば、神様は聖霊の導きによって私たちのために救いの完成への道を開いてくださるということであります。ところが、クリスチャンであっても多くの人々が「外見上の見込み」や「外部の望ましい事情」に頼って歩もうとするために、救いの完成への道を見失いそうになるのではないでしょうか。パウロのように、神様御自身が救いを完成してくださると信じて、そのように祈りつつ歩んでいきたいものです。

 信徒も栄光を受ける
 続く12節では、パウロは救いを完成してくださる神様の究極的な目的を次のように記しています。「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。」「わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって」という言葉は、救いの完成が人間の功績によるのではなく、父なる神様と御子キリストの恵みによるのだという真理を改めて教えています。そして、神様の究極的な目的が、第一に「わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ」るようになることであり、第二に「あなたがたも主によって誉れを受けるようになる」ことだと述べています。これら二つのうちの第一の目的、すなわち主イエスの名があがめられるということは、すでに10節でも述べられておりました。すなわち、10節には「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」と記されています。キリストの再臨と最後の審判の目的は、何よりも神とキリスト御自身の栄光であるということが教えられていました。そして、パウロはそこではあえて信徒たちが栄光を受けるということを記しませんでした。信徒たちがキリストの最後の審判を信徒自身の栄光のために利用するような考え方をしないように配慮していたのでありましょう。

 ところが、12節の終わりには「あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです」というように、信徒自身も栄光を受けるということが、やや控えめな形ではありますがはっきりと記されているのです。このことをどのように理解するべきでしょうか。信徒自身が栄光を受けることはあまり重要なことではないので、終わりに少しだけ書いたということなのでしょうか。そうではないと思います。信徒が終わりの日に栄光を受け永遠の命を与えられるということは、キリスト教信仰の核とも言うべき重要な事柄です。そして、その重要な事柄をパウロはあえて控えめな形で記しているというところに、パウロの深い確信を読み取ることができます。すなわち、神様が救いを完成してくださるのは、神とキリストの栄光のためでありますが、それと同時にキリストを信じた者たちが栄光を受けるためでもある、ということです。キリストの栄光を第一に考えつつ、そのキリストの栄光にあずかるという仕方で、クリスチャンも栄光を受けるという謙遜な確信です。このキリストの栄光とそれにあずかる信徒たちの栄光という完成のときを目指して、救いの歴史は新約聖書の時代も、そして今も、一日一日と前進しているのであります。

 神の計画に信頼する
 先にご紹介したシンプソン牧師は、神様のご計画に信頼して従うことの大切さを、川から水を引いて回す水車のたとえを用いて次のように述べています。「水車用の小溝には、水の少ない時にも多い時にも、いつも同じくらいの水が流れている必要がある。下の川を流れれば、川底を小波をたててわずかに流れるほどの同じ少量の水でも、上の小溝を通って水車に連続的に注ぎかければ、どんなに重い機械でも回転させるのである。そのように私たちの霊的生活においても、私たちが正しい水準で出発し、その速度を失って神に遅れることがないよう、瞬間瞬間を守るなら、私たちの霊潮の最高度と最低度においても、同じように働くことは容易である。この恩恵を受ける秘訣は、神の幸いな御心を自分のうちに満たして、即座に従うことと、時々刻々神と共に歩むことである。」このたとえで言われている水車に連続的に注ぎかける少量の水とは何でしょうか。それは、継続的な祈りによって常に神様に自分の思いを打ち明け、神様の御心を受け止め、神様と共に歩むことです。救いの完成のために祈る継続的な祈りの水を注ぎ続けることによって、私たちの人生という重い水車は確実に回転し、神様が私たちの人生の上に働いて、救いを完成してくださることになるのです。(2017年2月19日の説教より)