聖書 二テサロニケ1:3-4

 兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。(一テサロニケ1:3

 信仰によって私たちの内に宿った永遠の命は、聖霊の働きによって成長し、終わりの日には朽ちることのない永遠の命の体となって完成します。ちょうど胎児が母親の胎内で成長するように、永遠の命は信仰者の魂の中で成長します。そして、赤ちゃんが時満ちて生まれるように、この世の肉体の死と終わりの日の復活によって、信仰者の永遠の命は天国で体をもって出現するのです。ですから、クリスチャンの成長とは、単にクリスチャンらしい上品な人になったとか、性格がよくなったというような表面的なレベルにとどまることではありません。私たちの内において、キリストの永遠の命が成長していくことなのです。

 パウロは「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(二コリント4:16)と記しました。「外なる人」とは私たちの地上の体であり、「内なる人」とは私たちの内に宿った永遠の命です。やがて、私たちの地上の体が滅びるときに、内なる永遠の命は天国に移され、終わりの日の復活を待つものとなるのです。そのことをパウロは、幕屋と建物の比喩で次のように言い表しました。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」(二コリント5:1)「地上の住みかである幕屋」とは私たちの地上の体のことで、それは一時的なものです。神によって備えられている「建物」とは、天国で与えられる永遠の命の体のことで、それは永遠に存続するものです。「天にある永遠の住みか」に住むことを目標にして、私たち信仰者の「内なる人」は成長していくのです。ですから、パウロにとって信徒たちの成長は、天国で永遠の命の体を共に与えられるという希望を確かにするものでありました。   (1月29日の説教より)