テサロニケの信徒への手紙一5:23-24

 神によって聖化される
 本日の箇所の23節には「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」というパウロの祈りの言葉が記されています。このテサロニケの信徒への手紙一においては、神様が信じる者を聖霊によって聖なる者としてくださるという聖化の働きが強調して教えられていました。たとえば、4章3節には「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」とありますし、4章7節には「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」とあります。聖化の働きは自分自身の力で自分を清めようとする人間の働きではなく、神様御自身の働きです。日本キリスト教会信仰の告白にも「父と子とともに崇められ礼拝せらるる聖霊は、信ずる者を聖化し」とあるとおりです。ですから、パウロは「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように」と記して、聖化が神様の働きであることを強調しているのです。
 ここで、パウロは終わりの日を強く意識して祈っています。それは、「あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」という祈りにもよく表れています。なぜなら、「わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき」というのは、終わりの日の最後の審判のときだからであります。「あなたがたの霊も魂も体も」というのは興味深い言い方です。言葉の意味を考えてみますと「霊」というのは人間の神との関係における生命であり、「魂」というのは人間の内面的な人格であり、「体」というのは人間が外面的に行動したり自分を表現したりする肉体のことを指しているのかもしれません。ただし、パウロは「霊も魂も体も」と記すことによって、人間の存在が三つの部分に分けられるということを言おうとしているのではないでしょう。そうではなくて、「霊も魂も体も」という表現で人間の存在全体を指し、人間の存在全体が神の聖化の働きの対象となっていることを指しているのでしょう。「何一つ欠けたところのないものとして守り」というのは、やや大げさな翻訳のようにも思えます。ギリシア語原典ではホロクレーロスという言葉が用いられており、これは「全体の」とか「完全な」という意味です。口語訳聖書では、「完全に守って」と訳されていますが、その方が自然な訳のようにも思われます。また、英語の聖書の中には、形容詞としての意味をそのまま生かして“May your whole spirit, soul and body be kept”(NIV、あなたがたの、霊、魂、体全体が守られるように)と訳しているものもあります。いずれにしても、終わりの日に向けて私たちの存在全体を守ってくださる方は神様であるということです。確かに、私たちは自分の行いに責任を持ち、罪から遠ざかり、よき業に励むように努めねばなりません。しかし、私たちが終わりの日の最後の審判に備えることができるのは、私たち自身の力によるのではありません。神様が私たちの存在全体を霊も魂も体も、悪魔の誘惑から守ってくださり、日々清めて聖なる者としてくださることによって、私たちは終わりの日に備えることができるのです。
 「非のうちどころのないものとしてくださいますように」という言葉の解釈には、二とおりの可能性があります。一つは、キリストの再臨のそのときに、信じる者を「非のうちどころのないもの」に変えてくださるという、最後の審判における栄光の体への変化、すなわち栄化を祈り願っているという解釈です。もう一つは、キリストの再臨のときに向けて、信じる者を「非のうちどころのないもの」に次第に変えてくださるという、この世における漸進的な(つまり次第に変えられていくという)聖化の働きを祈り願っているという解釈です。ギリシア語の原典と比べながら日本語の聖書を読んでみますと、「非のうちどころのないものとしてくださいますように」の「してくださいますように」というのはギリシア語の原典にはない言葉であるのがわかります。原典では、23節後半の動詞は「守る」という意味のテーレオーという言葉だけで、しかもこの動詞は受身形になっています。そこで、原典の文字どおりに近い形で訳しますと、新改訳聖書のように「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように」となります。「責められるところのないように、、、完全に守られますように」ということは悪の誘惑の力から守られますようにということですから、この箇所は、キリストの再臨のときに向けて信じる者を悪から守り聖化してくださるという、この世における漸進的な聖化の働きを述べているのではないでしょうか。ただし、聖化が完成されるのは、信じる者がこの地上の生涯を終えて、栄光の体が与えられる終わりの日であることも忘れてはなりません。

 確信をもってゆだねる
 このように、5章23-24節には、テサロニケの信徒たちが神様の働きによって聖化されていくようにというパウロの真摯な祈りが記されています。しかも、それは、祈っても結果はどうなるかわからないというようなあやふやな姿勢ではなく、神様は必ずそのようにしてくださるという確信の姿勢で結ばれていることに注目しておきたいと思います。すなわち、24節には「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」という確信に満ちた言葉が記されています。「あなたがたをお招きになった方」とは、もちろん神様のことです。この手紙の2章12節に「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」とありますように、神様は信じる者を天国と永遠の命の栄光にあずからせようと招かれたのであります。ここで「招く」と訳されている言葉は「召す」と訳すのがより適切でしょう。ですから、「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」(口語訳)とか「あなたがたを召された方は真実ですから、 きっとそのことをしてくださいます」とも訳されているのです。神様は信じる者を選んで召してくださった以上、その召しの目的を完成してくださるということです。ローマの信徒への手紙8章30節には「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」とありますように、神によって選ばれ召し出された者は、罪赦され、義とされ、聖とされ、さらには永遠の命の栄光の体を与えられるのであります。永遠の命の栄光の体を与えることを英語でグロリフィケーションと言い、日本語では「栄化」と訳されます。「栄化」という言葉は、なぜか教会の中でも「聖化」ほど頻繁には用いられません。しかし、「聖化」は「栄化」によって完成されることを忘れてはなりません。
 本日の説教の題は「祈ってゆだねる」です。この「祈ってゆだねる」ということの意味は、もちろん信仰に基づいて神様にお祈りをして結果は神様におゆだねするということです。しかし、ただどうなるかわからないから結果はおまかせするしかないということではありません。神様は最終的に私の救いを完成してくださるという信頼の気持ちをもってゆだねるということなのです。神様は終わりの日に向けて私たちを聖なる者としてくださり、終わりの日には永遠の命の栄光の体を与えてくださいます。必ずそのようにしてくださるという深い信頼をもって、すべての祈りをささげるようにしたいと思います。私たちの人生は、神様の聖化と栄化の道の中で守られ導かれているのであります。不安定な時代の中で右往左往することなく、聖霊に導かれて神様の聖化と栄化の道をひとすじに歩んでまいりましょう。           (2017年1月8日の説教より)