従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。(一テサロニケ5:6-7)

 ここでは、この世の人々が眠っている人に、クリスチャンが目を覚ましている人にたとえられています。それでは、この世の人々はどのような意味で眠っており、クリスチャンはどのような意味で目を覚ましているというのでしょうか。これは、終わりの日の最後の審判に備えて、信仰的・道徳的に目を覚ましているということです。つまり、いつキリストによる最後の審判が来てもよいように、常にキリストを信じ、キリストに従おうとしている人は、信仰的・道徳的に目を覚ましていることになります。反対に、キリストによる最後の審判を無視して、キリストを信じず、キリストに従おうとしない人は、信仰的・道徳的に眠っていることになるのです。

 パウロは、目を覚ましている人と眠っている人の比喩で表されていることをさらにはっきりさせるために、それと並べて、身を慎んでいる人と酒に酔う人の比喩をも用いています。身を慎んでいる人とは、いわゆるしらふの人で、何が神様の喜ばれることであるかということについての正常な感覚を持っている人のことです。酒に酔う人とは、この世の快楽に酔いしれていて、何が神様の喜ばれることであるかについての正常な感覚の麻痺している人のことです。ですから、7節の「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」というのは、文字通りの意味ではなく、神様の御心を知らない人々が、終わりの日に備えず、信仰的・道徳的に眠った状態で、この世の快楽に酔いしれながら生きている様子を表現しているのです。

 さらに8節では、パウロは終わりの日に備えているクリスチャンの姿を、戦いの備えをしている兵士の比喩によって表しています。「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」信仰・希望・愛はクリスチャンの身に着けるべき3つの大切なものです。それらをしっかりと身に着けて、悪魔の誘惑に負けないようにしていることが勧められているのです。 (11月20日の説教より)