説教「絶えざる前進」

テサロニケの信徒への手紙一3:9-10

喜びと感謝

使徒パウロは、テサロニケ教会の信徒たちが迫害の中で信仰と愛をしっかり保ち、揺るぎない信仰生活をしていることを知って、大いに喜んでいました。9節には「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」とあります。

ここで強調されているのは、一つには、テサロニケの信徒たちの堅実な信仰生活についてパウロが抱いている大きな喜びです。この喜びについては、2章19-20節でも「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです」と記されていました。そして、もう一つの強調されていることは、この大きな喜びに対する感謝です。「どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」という問いには、どのような感謝も十分とは言えない、どのように感謝しても感謝しつくせないという気持ちが込められています。パウロはこの手紙の中で、テサロニケの信徒たちの信仰について、繰り返し神様に対する感謝を言い表しています。すなわち、1章2節では「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と記していますし、2章13節では「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」と記しています。そして、今、迫害の苦しみの中でテサロニケ教会の信徒たちが信仰と愛を保っているという知らせを聞いたときに、いくら感謝してもしつくせないほどの大きな感謝の気持ちを神様に対して抱いているというのです。

神の主権的な御業

この喜びと感謝の背後には、信仰者をクリスチャンとして聖なる者にしてくださるのは神様御自身の働きだという考え方があります。パウロは同じ手紙の5章23-24節で次のように記しています。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」「必ずそのとおりにしてくださいます」とありますように、パウロは神様がテサロニケの信徒たちを選び、信仰を与え、義とし、聖とし、神の国の栄光を受け継ぐ者としてくださることを確信していました。信仰者の救いが完成されるのは神様御自身の働きに基づいているということを確信していたのです。そこで、テサロニケの信徒への手紙二2章13-14節には次のように記されています。「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。」「初穂」とは初めて実った穂のことで、その土地で初めて信仰をもった人々のことを表す比喩です。ここでは、神がテサロニケの信徒たちを「救われるべき者の初穂としてお選びになった」ということが、感謝の根拠なのです。神が救われるべき人をお選びになり、その救いの御業を完成に向けて進めてくださるという、神の主権的な御業に対する信頼こそ、感謝の根拠なのであります。

欠けを補いたいという祈り

神様が主権をもって救いの業を進めてくださるといいましても、それは人間の側で何もしなくてよいということではありません。人間はそれぞれの分に応じて、神の業に参与し、奉仕するのであります。パウロは、テサロニケの信徒たちをますます聖なる者としてくださる神の御業に信頼しつつ、自らの務めとして神の業に仕えたいと願っていました。そこで、10節では「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と記しています。「必要なもの」と訳されているヒュステレーマというギリシア語は、「不足」「欠乏」「欠け」「欠点」という意味です。英語の聖書ではこの語は“what is lacking”(KJV、NASB、NIV、RSV)すなわち「欠けているもの」と訳されており、他の日本語の聖書でも「足りないところ」(口語訳)、「不足」(新改訳)などと訳されております。ですから、ここでパウロは、テサロニケの信徒たちの信仰にはなおも「欠けているもの」がある、と率直に指摘しているのです。テサロニケの信徒たちにはクリスチャンとして欠けがあり、なおも成長すべき点、前進すべき点があるというのです。

パウロはこれまで手紙の中でテサロニケの信徒たちの信仰を高く評価していました。それだけに、この言葉は私たちを驚かせます。もちろん、この言葉に込められているのは悪意ではなく、主にあって欠けは欠けと率直に指摘するクリスチャンとしての真実な交わりの気持ちでしょう。また、自分たちのテサロニケ伝道が迫害のために比較的短い期間で終わってしまったので、教えるべきことを十分に教えることができなかったという責任感から、パウロはこのように言っているのかもしれません。パウロの責任感と熱意がよく表れているのが、「夜も昼も切に祈っています」という言葉です。特に「切に」と訳されているヒュペレクペリスーというギリシア語の副詞は、「あらゆる限度をはるかに超えて」という意味の非常に強い言葉です。つまり、「切に」というのは単なる社交辞令ではなく、誰かのために祈る場合の普通の限度をはるかに超えるくらい、熱心にひたすら信徒たちの成長と聖化のために奉仕したいと願っていたということです。他の人々の信仰上の欠けを発見したり指摘したりすることは、比較的たやすいことでしょう。しかし、その欠けを補いたいと「夜も昼も切に祈る」ことは簡単にできることではありません。他の人々の信仰上の欠けを補いたいという限度を超えたほどの祈りに基づいて、パウロの伝道と牧会があったのだということを教えられます。           (2016年9月4日の説教より)

Rev Miyoshi

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