説教「確かな人物とは」

フィリピの信徒への手紙2:19-24

 父と共に仕えるように
 使徒パウロは、同労者のテモテについて「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」(22節)と記しています。この箇所は、翻訳上少し修正を加えた方がよいと思われます。すなわち、後半部分の「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」というのは、「息子が父と共に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と翻訳する方がよいでしょう。テモテはパウロに仕えたというよりも、パウロと共にキリストの福音に仕えたということです。テモテはパウロから伝道者としての訓練を受けた人ですから、パウロの弟子であると言ってもよいくらいです。しかし、むしろここでは「共にキリストの福音に仕えた」同労者であるという面が強調されています。キリストを中心とした交わりでは、先生と弟子、先輩と後輩という人間的な面よりも、むしろ「共にキリストの福音に仕えた」同労者という面が大切なのです。ギリシア語原典を読みますと、「ホース・パトリ・テクノン・シュン・エモイ」となっており、パトリ(父に)という言葉とテクノン(子が)という言葉の間に、その後で出て来るシュン(〜と共に)という言葉が省略されていると考えるのが、文法上も妥当です。古代のギリシア・ローマ世界では、子供が父親と共に働くことによってその家の家業を習っていく習慣がありました。おそらく、そのこともパウロの念頭にあったのでしょう。

 練達した確かな人物
 この箇所でさらに注目されるのは、「確かな人物であること」という言葉です。これは、ギリシア語でドキメーという言葉です。この箇所は日本語や英語の聖書で様々な訳し方がなされています。口語訳聖書は「テモテの練達ぶり」と訳し、新改訳聖書は「テモテのりっぱな働きぶり」と訳します。英語の聖書では“the proof of him”(KJV、彼の証明)、“that Timothy has proved himself”(NIV、テモテが自分を証明したこと)、“Timothy’s worth”(NRSV、テモテの価値)など、様々な訳し方があります。このドキメーという言葉の動詞形ドキマゾーは、「試験をする」「試験によって価値を証明する」という意味があります。ですから、クリスチャンとして様々な試練を受けて成熟した人格を身につけ、それが周囲の人々からも認められていることを指しているのです。 ローマの信徒への手紙5章4節の「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という御言の「練達」というのも、このドキメーという言葉です。テモテという人の生涯は苦難の連続であったに違いありません。クリスチャンの子供として若いときから周囲の迫害を受け、故郷を離れてパウロと共に伝道するようになってからは、旅をして行く先々で伝道しては迫害を受けたに違いありません。あるときはユダヤ人から、また別のときは異邦人から命を狙われ、安住の地のないような生活であったことでしょう。しかし、そのような苦難の中でテモテはただ疲れきって消耗してしまったのではありませんでした。彼はキリストの恵みによって「練達」した人になったのです。 キリストは弟子たちに向かって「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」(ルカ9:23)とおっしゃいました。テモテの生涯はまさしく十字架を負ってキリストに従い、キリストの恵みによって練達と永遠の命を受けた歩みでありました。同じように、私たち一人一人も、キリストの招きに答えてキリストに従って歩んでまいりますときに、「練達」した者とされ、「確かな人物」とされていくのであります。

 十字架を負うこと
 和歌山県の南にある新宮教会の牧師を33年間務められた樋口春喜先生が、新宮教会でなさった最後の説教は「新生の喜び」という題です。この説教の中で樋口先生はクリスチャン一人一人が負わなければならない十字架の意味について丁寧に教えておられます。「十字架は神から与えられるものです。たとえば貧しさのために三度の食事も満足にできないという時、それを神からのものとして受けとめるならば、十字架と呼ぶことができるでしょう。しかしある人が、それと同じ苦しみを受けるために、自ら断食したとしても、その苦しみは十字架ということはできません。イエスは『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分をすて、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい』と言われましたが、この「自分の十字架」とは、自分が自ら選び取る苦難ではありません。たとえば断食とか、難行苦行とか、修行とかいうものは十字架ではありません。自分の十字架とは、人間が各自神から受けている苦難を言うのです。」 現実の信仰生活では、「自ら選び取る苦難」と「神から受けている苦難」をはっきりと二つに分けることは難しい面があります。ですから、あまりこの二つの区別に神経質になってもいけませんが、樋口先生の説教の中の「『自分の十字架』とは、自分が自ら選び取る苦難ではありません」という教えは、とても大切なことを含んでいます。それは、私たちがあせって苦難の道を選び取らなくても、神様はキリストを信じる私たちに苦難を与え、その苦難を通して私たちを練達した確かな人物としてくださるということです。テモテは神様の召しに応えて伝道者としての道を歩む中で、神様から多くの苦難を与えられ、練達した確かな人物とされました。私たち一人一人もクリスチャンとしての人生の中で、神様から与えられた苦難を誠実に受け止めていくときに、練達した確かな成熟したクリスチャンとされるのです。一人のクリスチャンとして、また一つの教会として、前進や成長を願うときに、あせりは禁物です。神様御自身が、苦難を通して私たちを練達した者とし、そのことによって成長を与えてくださるのです。

(2015年11月29日の説教より)