説教「体の復活を信ず」

ルカによる福音書24章36-43節

 日常生活による常識
 人間が日常生活の中で自分の周りに起こる出来事だけを見て、これが常識だと思い込んでいることは、必ずしも正しいことではありません。たとえば、古代メソポタミアの人々は、この世界は球の半分の形をした天と、海とそれを取り囲む絶壁によって囲まれた円盤のような大地からできているものだと考えました。また、ミクロネシアのパラオ諸島に伝わる宇宙観もそれとよく似ています。すなわち、それによれば、天はなべを伏せた形をしており、その下に日、月、星、雲があります。陸は海によって取り囲まれていますが、海の底に根を下ろしていて、その下には地下の世界があります。天と海のぶつかるところが水平線で、太陽は夕方になると海に飛び込みますが、そのときマングローブの実を海中に落としてサメがいないことを確かめてから海に入るのだそうです。それから、太陽は海中と地下の世界を通り、翌朝に反対側の海中から再び天に昇っていくのだと考えられていました。このパラオ諸島に伝わる宇宙観がそこに住む人々の日常生活の反映であることは、明らかです。そして、実際には、宇宙とはそれとはまったく異なるものなのであります。  現代の社会は高度に機械化された社会であります。私たちは機械とコンピュータに囲まれて生活していると言っても過言ではありません。ですから、現代の多くの人々は機械的な世界観をもっています。すなわち、この世界はねじを巻かれた時計のようなもので、自然も人間もその中の部品にすぎず、ねじの終わるときまで法則に従って規則正しく動き続けるのだ、という考え方であります。このような世界観は近代哲学の祖と言われるデカルトにさかのぼるものだとも言われます。そして、あくまでも一つの世界観にすぎず、絶対的なものではありません。それにもかかわらず、現代に生きる多くの人々はこのような機械的な世界観を絶対的なものとして信じ込んでいるために、かえって柔軟な考えができなくなっています。機械的な世界観に立てば、キリスト教の教える復活ということも、一般の自然法則に反する荒唐無稽なことだと言われます。しかし、人間の生と死という根本的な問題を考えるときには、機械的な世界観という前提そのものを一度白紙に戻して考える必要があります。なぜなら、聖書の教える復活ということは、私たちの世界観そのものに変革を迫るような根本的な出来事だからであります。

 復活したキリスト
 本日の聖書の箇所には、十字架上で死んで三日目に復活したイエス・キリストがエルサレムにいた弟子たちに姿を現わされたことが記されています。そして、ここに記されていることは、ヨハネによる福音書20章19-23節と共通する内容をもっています。その共通する点とは、イースターの日の夕べに復活したキリストが突然に現れて弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」とお告げになったということです。この突然の出現が示唆していることは、復活したキリストの体が、私たちが地上で持っている体とは異なり時間や空間の制約を受けない「霊の体」であるということであります。ルカによる福音書24章31節によれば、エルサレムからエマオへと旅する二人の弟子の前に姿を現わされたキリストは、二人の弟子が復活したキリストだと気づいたすぐ後にその姿が見えなくなったということです。そして、この二人が急いでエルサレムに帰り復活したキリストに出会ったことを他の弟子たちに話している最中に、再び復活したキリストが現れてくださったのでした。ヨハネによる福音書20章19節によれば、このとき弟子たちはユダヤ人の迫害を恐れて家の戸に鍵をかけて集っていました。彼らは、これからの自分たちの生き方について大きな不安をかかえていたに違いありません。しかし、復活したキリストはそこに入って来て彼らに平和をお告げになりました。これは言い換えれば、「私は復活した。そして、あなたがたと共にいる。だから、安心しなさい」と言っておられるということです。

 「霊の体」の復活
 しかし、集っていた弟子たちは、「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」のでした(37節)。亡霊とは死んだ人の霊魂がこの世にとどまっているもののことです。亡霊には体はありません。しかし、復活したキリストは体を持っておられました。ただし、その体は、私たちが地上の生活で持っているような朽ちていく肉体ではなく、もはや朽ちることのない永遠の命の体でありました。使徒パウロは、この地上の肉体は種のようなもので、復活の体はその種から生まれる新しい命によるものだと説明しています。すなわち、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(一コリント15:42-44)と教えています。  ここで、注意深い方は、復活したキリストが亡霊ではないが「霊の体」を持っていたというのは、いったいどういうことだろうか、そのようなものがはたして存在するのだろうか、と疑問をもたれるでありましょう。もちろん、現代の常識からすれば、そのような「霊の体」というものはありえない、ということになります。しかし、本日、私たちは現代の常識の枠の中で考えるのではなく、あえてそれを超える考え方をしようとしているのです。この「霊の体」は亡霊のような頼りないものではなく、私たちの地上の肉体以上にしっかりしたものです。そのことは、次のような、38-39節のキリストの御言葉からわかります。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」復活したキリストの体には肉や骨がありました。そして、それはもはや朽ちることのない肉や骨でした。しかも、その肉や骨にはキリストの特徴がはっきりと残っていたのです。すなわち、ヨハネによる福音書20章20節や27節を読むと、復活したキリストの体には十字架につけられたときの釘や槍の跡がはっきりと残っていたということが示されています。その釘や槍の跡からも、弟子たちは目の前にいる人物がまぎれもなく十字架にかかって復活したイエス・キリストであるということがわかったのでありました。

 宗教改革者のカルヴァンは、復活によって個々人の個性、人格性が損なわれないということを、クリスチャンの体が「本質においては同じであり、性質としては別のものをもって復活する」(『キリスト教綱要』第3篇25章8)と解説しています。すなわち、一人の人格としての本質は同じであるが、もはや朽ちないものという別の性質をもって復活するというのであります。キリストも、神の子でありながら人となり人類の罪のために十字架につけられて死んだ、まさしくそのような方として復活なさったのでありました。すなわち、私たちのために死の苦しみを味わってくださった方が、私たちを死から解放してくださったのでありました。このように、死と復活の間には同じ人格が保たれているという連続性があります。しかしそれと同時に、かつて死んだ体とはまったく違う、もはや死ぬことのない体をもって復活しているという非連続性があります。この一見矛盾するかのように見える連続性と非連続性を同時に受け入れることが、キリストの復活とクリスチャンの体の復活ということを信じるための鍵となるのです。
(2015年5月10日の説教より)