説教「神によって生きる」
ルカによる福音書20:27-40
死人の復活への疑問
本日の聖書の箇所においては、キリスト教の復活の教えが問題となっております。すなわち、キリスト教の教えによれば、すべての人は終わりの日に復活させられて最後の審判を受け、正しい人は永遠の命と栄光を受けるが正しくない人は永遠の滅びと恥に定められるというのです。この復活の信仰はユダヤ人の中にも受け入れられており、キリストに敵対していたファリサイ派と呼ばれる指導者たちも死人の復活の教えを信じていました。ところが、ユダヤ人の中には死人の復活を否定する人々がおりました。この人々はサドカイ派と呼ばれ、エルサレム神殿の祭司たちを中心としたグループでした。サドカイ派は、宗教的儀式を律法で決められたとおりに行うことが最も重要であると考え、現実の倫理や道徳への関心は低く、主として経済的に豊かな人々によって支持されていました。彼らは復活や最後の審判のような究極的な教えを信じず、現実の政治や外交を得意としていました。古代ユダヤの歴史家ヨセフスによれば、「サドカイ派は金持ちだけに認められており、民衆は彼らに好感を抱いていない」とのことでした。サドカイ派のあり方は、宗教を冠婚葬祭の儀式に限定して受け入れ、それ以外は世俗的な原理に従って生きようとする、現代の人々に案外近いのかもしれません。 サドカイ派の人々はキリストに一つの質問を用意していました。その質問は、死人の復活という教えが不合理であることを証明するために考え出されたものでした。その内容は28-33節に記されているとおりですが、簡単に申しますと、次々と夫と死に別れて七人の男性と結婚した女性は、終わりの日に復活したときに誰の妻になるのか、という質問です。この奇妙な質問の背後には、古代イスラエルにおいて行われていたレビラート婚と呼ばれる制度がありました。それは28節に記されている「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」という掟で、旧約聖書の申命記25章5-6節に基づくものです。やもめが義兄弟と結婚するというこの制度は、一緒に住んでいる家族の財産を保護するという目的をもっていたとも言われています。そして、このレビラート婚が行われるのは、夫が死んだときに義兄弟が同居していることと、妻に子供がいないことが条件でしたから、普通には行われたとしても一人かせいぜい二人の義兄弟との間であったはずです。サドカイ派の人々が言うような、七人の男性と次々と結婚するなどということは、まずありえないことでした。そのような極端な事例をあえて考え出して質問したのは、最後の審判のときに死人が復活すれば、この女は七人の男性の妻ということになり重婚の罪を犯すことになると主張するためでした。そして、そのような不道徳な状態を認めることになるから、死人の復活の教えは間違っている、と主張しようとしたのでした。
死人の復活の現実性
このサドカイ派の議論は、死人の復活を否定するために考え出された「へりくつ」でした。そこで、キリストはこれに対して見事な反論をなさいました。第一に、サドカイ派の考え方の前提となっている、復活したときの状態が地上の生活のときと同じようなものであるというのが間違っていることを指摘されました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」(34-36節)この教えの中で「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とは、最後の審判において神に義とされ永遠の命と栄光を与えられる人々のことであります。そのときに与えられる永遠の命は、地上の肉体の命とは違って朽ちることのない命でありますから、そこでは結婚して子供を産んだり年を取って死ぬというようなことはもはやありえません。来たるべき世における生活がこの世における生活とはまったく異なっているということは、ヨハネの黙示録の21章4節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と教えられているとおりです。もしこの世の生活とまったく同じようなものであるとすれば、来たるべき世の意味はないことになってしまいます。ですから、サドカイ派の人々の考えはまったく奇妙なものでした。彼らは復活の教えを否定しようとして、自らの考えの浅さを暴露してしまったのでありました。 第二に、キリストは、神と人との関係が肉体の死によっては消滅しないということを、旧約聖書を引用して説明されました。そして、神との関係が消滅しない以上、肉体は死んでも人は復活するということを論証なさったのであります。37節でキリストが引用しておられるのは、旧約聖書の偉大な指導者モーセがシナイ山のふもとで神に出会う場面です。神は燃える柴の木の間からモーセに語りかけて「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト3:6)とおっしゃいました。アブラハム、イサク、ヤコブはモーセの先祖であり、モーセの時代にはすでに彼らの肉体は死んでいました。ところが、神がモーセに向かって「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とおっしゃって御自身を啓示なさったのですから、神とアブラハム、イサク、ヤコブとの関係は消滅していなかったのでありました。神はアブラハムとその子孫との間に変わることのない契約を結んでおられましたから、神とアブラハム、イサク、ヤコブとの関係は消滅しなかったのです。神との関係が消滅していない以上、たとえ地上の肉体は死んだとしてもその存在は神との関係において生きており、終わりの日には復活して朽ちることのない永遠の命の体を与えられるというのが聖書の教えなのです。
神との交わりのうちに生きる
旧約聖書の詩編16編には「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」(10節)と詠われています。この詩人も、肉体の死は決定的なことではないということを確信していました。すなわち、この詩人は永遠なる神との交わりをもっているので、肉体の死は彼の存在の終わりを意味するものではなかったのです。そして、この詩人は「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」(11節)と告白することによって、神によって永遠に生かされるという希望を明らかにしています。キリストは「すべての人は、神によって生きているからである」(38節後半)と教えておられます。これは、神との交わりに生きる人の存在が肉体の死によっても消滅することなく、神の御もとに招かれて終わりの日の復活を待つものとなるということを表しているのです。 このように、神によって生きるということは、神との確かな交わりのうちに生きるということであります。そして、神との交わりを通して、死を打ち破る神の恵みの圧倒的な力を知らされ、その恵みに支えられて生きるということであります。神の恵みの圧倒的な力は、キリストの十字架と復活の出来事において最も明らかに示されています。主の日の礼拝ごとにキリストの十字架と復活の出来事を示され、日ごとの生活の祈りの中でキリストの十字架と復活の恵みを受け止めていくときに、肉体の死に畏れなく向き合う力が養われていきます。そういう意味では、教会生活は肉体の死への準備であると言ってもよいでしょう。
(2014年10月4日の説教より)