説教「絶えず祈りなさい」
ルカによる福音書18:1-8

 不正な裁判官の裁判

 本日の箇所では、祈りの大切さが、ユニークなたとえ話で説明されております。すなわち、キリストは、祈りというものを、裁判を申し立てる訴えにたとえておられます。2節には「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」とあります。聖書の中のたとえ話でありながら、驚いたことにこのたとえ話の登場人物は、神を畏れず人を人とも思わない裁判官です。古代のユダヤでは、現代のように試験を受けて合格した人が裁判官になるというような整った制度はありませんでした。町の中で、有力な人が裁判官の務めに指名されていたのだそうです。ですから、裁判官に選ばれた人物が、あまり立派な人格のもち主ではなく、私利私欲に従って行動するような人物であることも十分ありえたのでした。「神を畏れず」いうのは、すべてをご存知で終わりの日に裁きをなさる神様を畏れていなかったということでしょう。神の正義や公平を考えないこのような裁判官の下では、公正な裁判を期待することは難しかったに違いありません。

 ところが、このような不正な裁判官にも、熱心に裁判の申し立てをする人がいました。「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』(3節)と言っていた」というのであります。裁判というのは、犯罪者を罰する刑事の裁判と、契約の履行とか損害賠償を求める民事の裁判があります。この「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訳されております、エクディケオーというギリシア語の動詞には、侵害された権利を回復するという意味と、犯罪者を罰するという意味の両方があります。ですから、この場合、いわゆる民事と刑事の両方の可能性があります。けれども、申し立てている人が「やもめ」で、「やもめ」は聖書の時代では経済的に貧しい人でありましたから、おそらく自分の侵害された権利を回復してほしいという、民事の裁判ではなかったかと想像されるのです。それから、「裁判官の所に来ては、~と言っていた」という表現ですけれども、これはギリシア語の文法で繰り返しを表す形で書かれています。ですから、このやもめは、繰り返し熱心に裁判をしてくれるように申し立てていたということです。これは、裁判によって何らかの実質的な利益を受けることができるから、熱心に訴えたのだと推察されます。何らかの契約を実行してもらうのか、それとも損害を賠償してもらうのか、とにかく、そういうことを請求しているのだろうと想像することができます。

 これに対して、裁判官の方はこのやもめを相手にしようとしませんでした。おそらく、このやもめのために裁判をしても何の見返りもないということが、積極的になれない理由であったと思われます。あるいは、やもめが請求している相手つまり被告の方が、その土地の有力者か何かで、その被告に不利な判決をすると、自分の立場が悪くなると考えていたのかもしれません。裁判官としては本来そういうことはあってはいけないのですけども、神を畏れず人を人とも思わないような裁判官ですから、当然のようにそうしていたのでしょう。

 ところが、ある日、この悪い裁判官は考え直しました。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」(5節)たいへん面白いことに、この人は自分が善い裁判官でないということを認めています。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」と開き直っています。ですから、正義のために何かしてやろうとか、このやもめがかわいそうだから同情して裁判しようとかいう気持ちはまったくないのです。しかし、この裁判官はやもめの執念深さにうんざりしていて、あのやもめはうるさくてかなわないから、早く片付けてしまいたいという気持ちで訴えを取り上げようとしたのです。「さもないと、ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」の中の「さんざんな目に遭わす」というのは、意訳でありまして、原典のギリシア語を直訳すれば、「目の下を打つと」いう言葉です。「目の下を打つ」というのは、どういうことでしょうか。ある研究者は、やもめが目の下を打つというのは、精神的肉体的に消耗させるという意味だろうと考えますし、別の研究者は、顔に泥を塗る、つまり評判を傷つける、面子を傷つけるという意味に取ります。いずれにせよ、この裁判官は相変わらず自己中心の考え方のままなのですが、それでも、やもめの訴えを取り上げてやろうとしている点が、興味深いのであります。つまり、このたとえ話は、神を畏れず人を人とは思わないような裁判官であっても、やむをえず正しく裁判する場合があるのだということを物語っているのです。

 神の支配の完成を求めて

 そして、その後の6節から8節で、キリストはこのたとえをご自分の弟子たち、つまりクリスチャンと神様との関係に当てはめておられます。「それから主は言われた。『この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。』」これは、不正な裁判官ですら自分にとって、何の利益にもならないやもめの訴えを取り上げてやることがあるのだから、まして、神様が、神様が愛しておられる人々、すなわち、神を信じる人々が、熱心に訴えている事柄を取り上げずに放置しておかれることがあるだろうかという意味です。「選ばれた人たち」というのは、神様が特別に愛して、選んで、神の民とされた人々のことです。それは、新約聖書では、キリストを信じることによって、神の子とされた人々すなわちクリスチャンのことであります。クリスチャンは全世界に、散らされており、その散らされたそれぞれの場で、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを証ししています。しかし、この世では、神の教え、キリストの教えに反することがあたかも当然のように行われていますから、クリスチャンは、迫害と誘惑を受け、戦いをしなければなりません。

 旧約聖書の詩編はクリスチャンにとって、祈りの教科書とも言われます。その中には、神に向かって、叫び求める祈りの言葉が多くあります。たとえば、詩編130編には、次のように詠われています。 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 主よこの声を聞き取ってください。 嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。 しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。 わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます 見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして。 イスラエルよ、主を待ち望め。 慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。 主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる。

 この詩を詠った人が、具体的にどのような状況で神様に向かってこの祈りをしたのかは分かりません。しかし、その人は、深い淵の底にいるような状態から祈りをささげています。そして、闇の中で、見張りが朝を待つにもまして、神の救いを待つような気持ちで祈っているのであります。おそらく、そういう言葉でしか言い表せないような人に言えない深刻な事情があったのでしょう。そして、この詩人の祈りの言葉は、神様を信じる人々が、それぞれの置かれた状況の中で、それぞれの置かれた人生の中で、神様の救いを求めて祈る気持ちを凝縮したような、そういう言葉であります。本日の聖書の中で「昼も夜も叫び求めている」というのは、財産や健康などの目に見える幸いを求めているというよりも、神が最終的にこの世を裁いてくださって、悲しむ人々、苦しむ人々に永遠の平安を与えてくださることを求めていると解釈すべきでありましょう。すなわち、神御自身の支配が完成することを待ち望むということが、祈りの本質なのであります。
(2014年6月30日の説教より)