説教「キリストの王国」
ルカによる福音書17:20-21

見える形では来ない
 イエス・キリストの時代のユダヤ人は、異教の国であるローマ帝国に支配されているという大きな苦難の中にありました。その苦難の中でユダヤの人々は、神がユダヤをローマ帝国から解放し、神の正しい支配を打ち立ててくださるという希望をもっていました。このことは、ユダヤの人々にとっては、神の国の希望でありました。ユダヤの人々は神の正しい支配が実現する日を待ち望んでいたのです。そこで、20節前半にありますように、ユダヤ人のファリサイ派の人々は「神の国はいつ来るのか」とキリストに尋ねたのでありました。この質問は必ずしも何年何月に来るという答えを求めているのではありません。むしろ、神の国が来るときにはこのような前兆があるというような、目に見える神の国のしるしは何か、ということを尋ねているのでありましょう。これに対してキリストは二つのことをお答えになりました。一つは、神の国は目に見える形で来るものではないということ、もう一つは、神の国はキリストが地上に来られたことによってすでに始まっているということであります。
 キリストは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」(20節後半-21節前半)とおっしゃいました。神がこの世界に介入して支配をなさるならば、それが何か特別に見える形で実現していくと考えるのは、ごく自然なことでありましょう。それは、ある人にとっては、ユダヤ人のローマ帝国に対する勝利であったかもしれません。また、別の人にとっては、ユダヤ人が経済的に繁栄するということであったかもしれません。さらに、別の人にとっては、ユダヤ人が神の掟を熱心に守るようになるということであったかもしれません。しかし、キリストは、神の国が来たことを目に見えるしるしによって見分けることはできないとはっきりお答えになったのです。「見える形」と訳されているギリシア語パラテーレーシスは、観察または観察の結果という意味で、医者が患者の症状を観察するときに用いられる言葉です。つまり、医者が患者を注意深く観察するように、人々がこの世界に起こる出来事を注意深く観察したとしても、神が歴史に介入される決定的な出来事を見いだすことはできない、というのであります。
 また、「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」という御言葉は、地上のある地域や領域を神の国と同一視するのは誤りであるということを教えています。このことを新約聖書の時代に即して言うならば、もしユダヤがローマ帝国から独立しても、それでユダヤが神の国になるのではない、ということです。また、現代に当てはめて言えば、いわゆるキリスト教国が自分の国を神の国と同一視することはできない、ということです。たとえば、アメリカ合衆国はキリスト教が盛んな国ではありますが、だからと言ってアメリカ合衆国が神の国であるということではありません。
 あなたがたの間にある
 それでは、神の国というものは世界の歴史の遥かかなたにあるもので、人々には手の届かないものなのでしょうか。21節の後半でキリストは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と述べておられます。この御言葉の意味は、神の国はイエス・キリストのおられるあなたがたの間にある、ということです。すなわち、キリストのおられるところには神の救いの恵みが支配しているので、キリストの救いの恵みの支配するあなたがたの間には神の国があるのだ、ということになります。さらに申しますならば、それは、キリストのおられるところでは罪の赦しの恵みが支配するということでもあります。
ヨハネによる福音書8章の姦通の女の話を思い出してみてください。人々が姦通の現場で捕えられた女を連れて来て「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と尋ねました。キリストはそれにはお答えにならないで、指で地面に何かを書き始められました。人々がしつこく問い続けるので、キリストは身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とおっしゃって、また地面に何かを書き続けられました。すると、人々は年長者から一人また一人とその場を立ち去って、キリストと連れて来られた女だけが残されました。キリストが「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」とお尋ねになりますと、その女は「主よ、だれも」と答えました。そこで、キリストは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃったのであります。この物語からはっきりわかりますことは、キリストのおられるところでは罪の赦しの恵みが支配するということです。すなわち、キリストのおられるところでは、神の国がすでに始まっているのであります。
キリストは「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という主の祈りを教えられました。パウロもまた「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4:32)と勧めています。ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4:10)と述べた後、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(同4:12)と教えています。これらの御言葉から、イエス・キリストが中心におられるならば、キリストを信じる者たちの心を罪の赦しが支配し、またお互いの関係も罪の赦しが支配するということがわかります。
そこで、これまでお話ししたことをまとめてみますと次のようになります。この地上における神の支配は目に見える兆候や場所などで特定できるものではないが、キリストが交わりの中心におられるならば、罪の赦しの恵みが支配しているので、神の支配が実現しているということです。神の支配は、神が全世界の創造者であり保持者であるという意味では、天地創造の昔に始まっており今も続いています。しかし、神が罪に墜ちた人類を救うという意味では、イエス・キリストがこの世に来られたことによって実現し、今も進んでいるのです。すなわち、神の支配はキリストによる救いの御業を通して進んでいるのです。そして、この救いの御業は終わりの日に完成し、そこで最後の審判が行われます。すなわち、キリストの罪の赦しの恵みにあずかった人々は永遠の命の恵みに入れられ、キリストの罪の赦しの恵みを拒んだ人々は永遠の滅びに投げ入れられるのであります。こうして神の支配は完成するのです。
聖霊の交わりによって
キリストの罪の赦しの恵みが支配するということは、聖霊が私たちの魂を満たし、私たち相互の関係を支配してくださるところに起こる奇跡です。宗教改革者のカルヴァンは、聖霊の交わりがないならば、神の父としての慈しみもキリストの慈愛も誰一人として味わい知ることがなかった、と述べています(『キリスト教綱要』Ⅲ・1・2)。ですから、洗礼を受けたクリスチャンであるから、キリスト教の教会に属しているからといって、当然のように罪の赦しの恵みを受けることができると考えてはなりません。罪の赦しの恵みは、祈りによって熱心に求める人々に神が分け与えてくださる宝物のようなものであります。「主の福音がわれわれの信仰に示して直視させるもろもろの宝を、祈りによって掘り出すということは、まことに真実である」(『キリスト教綱要』Ⅲ・20・2)とカルヴァンは教えています。キリストがお語りになった「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」という御言葉は、もちろん現代に生きる私たちにもあてはまるのですが、それはキリストの恵みが聖霊の働きによって私たち一人ひとりの魂に注がれる場合のことであります。ですから、私たちはキリストの恵みが聖霊によって注がれるように、絶えず祈り求めねばならないのです。  (2014年6月1日の説教より)