説教「十字架の福音」
ルカによる福音書16:14-18

 神は心の中を見られる
 本日の箇所では、傲慢な態度を取るファリサイ派の人々に対し、キリストが御自身の立場を三つの点から説明し、キリストの教えがファリサイ派の教えよりもはるかに勝っているということをお示しになっています。すなわち、第一に、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるということ、第二に、今や神の国の福音が告げ知らされているということ、第三に、キリストの教えは旧約聖書の律法を無効にするものではない、ということです。

 第一の点は、15節の「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」というキリストの御言葉に言い表されています。ファリサイ派の特徴は、外面的な行いを整えて人々に自分の正しさを見せびらかすということでした。それだけでなく、彼らは神に対しても自分が正しいという高ぶった思いを抱いていました。そのような思いは、ルカによる福音書18章の「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11-12)というファリサイ派の祈りの言葉によく表されています。ところが、人々からさげすまれていた徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)と祈っています。神に正しい者として受け入れられたのは、ファリサイ派ではなく徴税人の方でありました。旧約聖書の詩編51編にも「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」(詩51:19)とありますように、神は自らの罪を認めて告白する人を受け入れてくださるのであります。したがって、人々は外面的な行いだけを見てファリサイ派の人々のことを正しいと言うかもしれませんが、神は内面をもご覧になって、ファリサイ派の人々の高ぶりを裁かれるのであります。神は、人々に見せるための外面だけの正しさを受け入れられません。「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる」という真理は、人は外面しか見ないが神は心の中まで見通されるということに基づいているのであります。

 福音の時の始まり
 第二の、今や神の国の福音が告げ知らされているという点は、キリストがこの地上に来られたことにより、今や律法の時ではなく福音の時が始まっているということを言おうとしています。ファリサイ派の特徴は、外面の行いの正しさを人々に見せびらかすことでありました。それは、彼らが旧約聖書の律法を日常生活の行いにあてはめることを何よりも重んじていたことに原因があります。つまり、彼らはたくさんの律法の一つ一つを生活にあてはめることに心を奪われてしまい、律法の根本精神である神への愛と隣人への愛を忘れてしまったのでありました。彼らの関心は「自分が神の律法を守っているかどうか」であって「神が律法を通して何を命じておられるか」ではなかったのです。自分の行いを中心に考えたことにより、彼らは律法の解釈を通して自分を正当化するという方向に傾いていきました。ところが、キリストの福音は、キリストを信じることにより罪が赦され救われるという教えです。ですから、キリストの福音を信じる者には、もはや律法の解釈により自分を正当化する必要がなかったのです。キリストにより救われたことへの感謝として、キリストに従って生きることがあるのみでした。しかも、その感謝は、聖霊の働きによって泉のように湧き上がる自由な力に基づいていたのです。モーセの律法の時は終わり、キリストによる福音の時が始まったのでした。キリストの少し前に活動した洗礼者ヨハネは、モーセの時とキリストの時を分ける位置に立っています。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」(16節)とは、洗礼者ヨハネの活動により、律法の支配する時は終わり福音の支配する時が始まったこと、福音を熱心に信じて神の国に入ろうとする人々が次々と現れていることを意味しています。

 律法は無効にならない
 第三の、キリストの教えは旧約聖書の律法を無効にするものではないという点は、律法の時が終わって福音の時が始まったと言っても、旧約聖書の律法は無効になったのではないということです。旧約聖書の律法には、儀式的な律法と道徳的な律法があります。たとえば、罪を犯したときに動物のいけにえを献げるというのは儀式的な律法であり、キリストの福音の下では文字どおりの意味での効力はありません。しかし、殺してはならないとか姦淫してはならないというのは道徳的な律法であり、キリストの福音の下でも効力をもっています。殺してはならないという戒めによって、私たちは殺人が罪であることを認識します。そして、キリストのためならば人殺しをしてもよいというような考えが誤っていることを知ることができます。キリストは、道徳的律法が世の終わりまで有効であることを「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(17節)という誇張した表現で教えられました。そして、その一例として「姦淫してはならない」(出エジプト20:14)という十戒の第七番目の戒めを取り上げておられます。興味深いことは、キリストの律法の解釈の方がユダヤ人の解釈よりも厳しいということです。旧約聖書の伝統に従って、ユダヤ人は姦通とは男が他人の妻と関係することだと考えていました。しかし、キリストは「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」(18節)とおっしゃって、男が正当な理由なくして離婚・再婚をすることや不当な理由で離婚した女と結婚することも姦通であるとおっしゃったのでした。罪の赦しを与えるキリストの福音を信じる者は、自分の行いを正当化する必要がないために、神の律法を文字どおりの意味に縛られることなく、その本来の精神に立ち帰って解釈することができるのです。すなわち、「姦淫してはならない」という戒めの基本精神は、結婚は神が定めた神聖な秩序であるからそれを破壊してはならないということでした。

 高ぶりを捨てる
 神の国の福音とは、キリストの十字架の福音であります。十字架の福音とは、イエス・キリストが私に代わって、私の罪を償うために十字架について死んでくださったということであります。キリストの十字架を日々仰ぐときに、私たちは、神の御子が十字架にかからねばならなかったほどの自らの罪の大きさを知り、その罪が赦されたという恵みを味わうのであります。太宰治の小説『ヴィヨンの妻』に出てくるトランプのカードのたとえを用いますならば、私たちの手にいっぱいになっていた「罪」というマイナスのカードが、キリストの十字架を信じることによって、一気に「罪赦された」というプラスのカードに変わるのです。すなわち、十字架を信じるならば、私たちは自分の人生を日ごとに罪赦された者としてやり直すことができるのです。このような圧倒的な恵みを与えるものが、十字架の福音以外にあるでしょうか。しかし、十字架の福音を信じるということは、難しいことでもあるのです。なぜなら、十字架の福音を信じるときに、私たちは、それまで自分がプラスであると信じて集めていたカードを全部放棄することを求められるからです。すなわち、私たちが自分の功績だと信じていたすべてのことが、キリストの十字架を信じることによって、一気にファリサイ派的な高ぶりというマイナスのカードに変わるからであります。使徒パウロは自分が非のうちどころのないような生き方をしてきたことを、「キリストのゆえに損失と見なすようになった」(フィリピ3:7)と告白しています。キリストの十字架は、私たちの高ぶりを断罪するとともに、私たちの負い目を帳消しにして恵みに変えるものなのです。 (2014年4月27日の説教より)