「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。」
(ルカ12:52)
ここでキリストが教えておられるのは、一つの家の中で家族がキリストを信じる人と信じない人に分かれる、ということであります。ですから、家族にキリストを宣べ伝えてそれが受け入れられない場合にも、あわてたりいらだったりすることのないようにいたしましょう。使徒パウロもコリントの信徒への手紙一の中で「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」(一コリント7:16)と記しています。確かに、自分がキリストを信じているのに、自分の配偶者や親や子がキリストを信じようとしないのは、つらいものです。しかし、その事態は神様の力によらなければ変えることができませんから、相手にもキリストを信じる信仰が与えられるようにと、祈って忍耐し神様にゆだねなければなりません。なぜなら、信仰をもつということ自体が神様の聖霊の働きだからです。
古代のキリスト教指導者のアウグスティヌスは、同じ十字架の福音を聞いても一人は信じもう一人は信じないという不思議な事実を「十字架の深淵」と呼びました。「どうして、ひとりの人には与えられもう一人には与えられないのか。わたしは『これが十字架の深淵である』ととなえるのを恥じないのである。われわれのきわめることを許されない、神のもろもろのはかりごとのある深淵から、われわれのなすいっさいの力が発するのである。(中略)なぜある人が召され、他の人が召されないのか、それはわたしには大きすぎる問題である。それは深淵である。十字架の深淵である。わたしは感嘆して叫ぶことはできる。けれども、議論によって証明することはできない」(カルヴァン『キリスト教綱要』3篇2章35におけるアウグスティヌスの引用から) (2月9日の説教より)