目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 (一コリント12:21)
このたとえは、ずいぶん奇妙なたとえのように思えます。「手」は人間が生活するために活発に働く部分ですし、「足」は人間が場所を移動するためになくてはならない部分です。私たちの日常の感覚では、自分の「手」や「足」が要らないなどと思うことはまずないでしょう。しかも、「目」や「頭」が「手」や「足」に向かって「お前は要らない」と言うのはいったいどういうことなのでしょうか。考えてみますと、「目」は見ることによって視覚的な情報を取り入れる部分ですし、「頭」は取り入れた情報を処理して、体の各部分にどう動くかという指示を与える中枢の部分です。情報を取り入れる部分や情報を処理する部分は、「手」や「足」に対して命令を出す部分に当たります。命令系統ということを考えますと、「手」や「足」よりも上にあると言うことができるでしょう。ですから、「目」や「頭」が「手」や「足」を見下して「お前は要らない」と言うことがたとえとして考えられたのでしょう。
そして、これはおそらくコリント教会の事情を反映したたとえなのでしょう。パウロが11章22節でコリント教会の裕福な人たちに対して「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と叱っているように、コリント教会では食事の交わりで裕福な人たちが貧しい人たちを軽んじているという問題がありました。また、13章の1節でパウロが「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と述べていることに表れていますように、礼拝の中で霊感を受けて異言という普通の人には理解できない言葉を語る人が偏って重んじられていました。おそらく、これらのコリント教会のいわば中枢にある人たちが他の人たちに向かって「お前は要らない」と言っているかのように思える現実があったのでしょう。しかし、たとえ命令系統では上にあるとしても、「目」や「頭」が「手」や「足」に対して「お前は要らない」と言うことはできません。なぜならば、「手」や「足」がなくなれば、体の働きは非常に妨げられ、体にとって重大な損害になるからです。裕福でない人たちや異言以外の目立たない賜物をもった人たちも、コリント教会というキリストの体にとって必要な部分であるということです。 (6月2日の説教より)