だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。       (一コリント11:28-29)

 「自分をよく確かめたうえで」とは何をどう確かめるということでしょうか。この箇所はしばしば、「自分が神様に罪を犯していないかどうかを確かめて、自分が罪を犯していないことを確認したら、聖餐式のパンを食べて杯を飲んでよい」という意味に理解されがちです。しかし、ほんとうにそのような意味なのでしょうか。「自分が罪を犯していないことを確認したら、聖餐式のパンを食べて杯を飲んでよい」という意味だとすると、いったいだれが聖餐式のパンを食べて杯を飲むことができるでしょうか。そもそも、「自分が罪を犯していない」などと考えるとすれば、それは罪の自覚が欠如しているにすぎないのです。ですから、28節の「自分をよく確かめたうえで」とは、29節にあるように「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者」ではないということを確かめたうえで、ということです。つまり、自分が主の体のことをわきまえているかどうかを確かめたうえでパンを食べ杯を飲むべきだ、ということです。
 すると、もう一つ大きな疑問が湧き上がってきます。「主の体のことをわきまえる」とはどういう意味だろうか、という疑問です。この箇所は、「パンが十字架上で死んだキリストの体を表すことをわきまえる」という意味だと考えられてきました。確かにそのように読むこともできるのです。コリント教会の裕福な信徒たちは、礼拝と結びついた食事の交わりで、キリストの十字架のことを思わないで飲み食いしていました。そのありさまは、まさしく「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者」だと言われて当然でした。しかし、それだけではなく別の意味を考えることもできます。それは、この「主の体」は教会を表していて、「主の体のことをわきまえる」とは、「キリストの体である教会のことをわきまえる」という意味だと考えるのです。コリント教会の裕福な信徒たちは、礼拝と結びついた食事の交わりを世俗的な社交の食事のようにしていました。それは、キリストの体である教会のことをわきまえないふるまいでした。そこで、パウロは29節で「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と警告を発したと考えられるのです。     (4月7日の説教より)