実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。(ーテサロニケ4:3)
「聖なるものとなることJと訳されているハギアスモスというギリシア語は、クリスチャンが聖なる者とされていく過程やその結果を表しており、神学の用語を用いれば「聖化」ということです。私たちはキリストによって救われたことによってすでに「聖なる者」とされているのに、なぜさらに「聖なるものとなる」ことが必要なのか、という疑問を抱かれる方もあるでしょう。フィリピの信徒への手紙の官頭においてパウロは、「キリスト・イエスの僕で、あるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ぼれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ」(1: 1)と記しています。この「聖なる者たちJとは、信徒たち全体のことを指しており、キリストによって救われ天国の民とされた人々のことです。また、ペトロは「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民で、す」(ーベトロ2:9) と記しています。これも、既にあなたがたは神の恵みによって選ばれて「聖なる国民Jにされているという意味です。
ところが、「聖なる者たち」というのは、一度そうなればそのまま変わらないというもので、はなく、絶えず「聖なる者たちJによりふさわしい内容を持つ者へと変えられていくのです。言い換えれば、一度「聖なる者たちJとされた人々は、ますます「聖なる者たちj とされていくということです。ウエストミンスター信仰告白は、聖化について、「全身にわたる罪の支配は破壊され、罪のさまざまな欲望はますます弱められ、力をそがれていき、そして彼らは、それなしにはだれも主を見ることができない、真の清さを実践できるように、救いにかかわる恵みの賜物すべてにおいて、ますます生かされ、強められていくJ(第13章)と教えています。クリスチャンは、キリストが再び来られる終わりの日に向けて、キリストと同じような聖なる者へと変えられていきます。このことについて、パウロは次のようにも記しています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」
(二コリント3:18) (9月25日の説教より)